あなたの生きがいは、なんですか?
生きがいは人間にとって空気と同じくらい必要不可欠なものであり、あなたの人生を豊かにしてくれるもの。
今回は、1966年に出版されてからいままで、人々に生きる意味について考えさせてきた名作である、神谷美恵子さん著『生きがいについて』を参考に、生きがいとはなにか?について考えていきたいと思います。
神谷美恵子さんという人
まずはじめに、神谷美恵子さんとはどういう人物なのか、知っておく必要があります。
神谷さんは、大学教授・翻訳家・著述家として活動しつつ、精神科医としても活躍していた方。
平成の天皇の妻である美智子上皇后が、いろいろあって体調の悪化と心の病が重なったことで失語症になってしまったとき、神谷さんは精神科医として、話を聞く相談役として尽力されたそうです。
他にも「戦時中の東大病院精神科を支えた3人の医師の内の一人」とか「戦後にGHQと文部省の折衝を一手に引き受けていた」などの逸話が残っていますが、なによりも、ハンセン病患者のためにささげた人生ゆえに、その存在が知られています。
当時「らい病」と呼ばれていた「ハンセン病」は、らい菌という細菌によってごく少数の人の体内で増殖しさまざまな症状が現れる病気。らい病患者は、その見た目から忌み嫌われ、伝染病と勘違いされ、当時は不治の病とされていたため、発病したら隔離される運命にありました。
彼女は19歳のときにらい病の患者さんとはじめて出会い、衝撃を受けると同時に、「ここにこそわたしの仕事があったのだ。苦しむ人、悲しむ人のところにしかわたしの居場所はない」と医師になることが天職であると思い定めたそうです。
しかし、周囲の大反対と自らの病気のために、この思いはすぐには実現せず、さまざまな仕事を経験し、紆余曲折を経て、42歳になってようやくらい病の患者さんに関わる仕事にたどり着きます。
強制隔離する目的で日本で最初に建てられた瀬戸内海の長島という小さな島にある国立療養所「長島愛生園」。
そこで、精神科医として、ハンセン病患者の心の病に向き合いケアをする仕事に携わることになったのです。
『生きがいについて』が生まれた理由
『生きがいについて』という本は、その長島愛生園で行っていた精神医学調査のひとつ「文章完成テスト」というものを試みたときの驚きから生まれました。
テストに応じた男性軽症患者180名のうち、ほぼ半数が将来になんの希望も目標も持っていないと記し、「毎日、時をムダに過ごしている」「無意味な生活を有意義に暮らそうと、ムダな努力をしている」「たいくつだ」などと、まるでもうしあわせたように書いていたのだそうです。
彼らはなによりも「無意味感」にいちばん悩んでいました。
ただ、それとは真逆で、
ここの生活、かえって生きる味に尊厳さがあり、人間の本質に近づき得る。
将来、人を愛し、己が生命を大切に、ますますなりたい。
これは人間の望みだ、目的だ、と思う。
と記すほどに、生きる喜びを味わって生きている人も少数いたのだそうです。
「同じ条件の中にいても、ある人は生きがいが感じられなくて悩み、ある人は生きるよろこびにあふれている。この違いはどこからくるのであろうか。」と神谷さんは感じ、筆をとりました。
書きはじめてから3年で筆を置き、膨大な量になってしまった原稿を3年間放置したあと、約1年の編集作業のすえ、合計7年をかけて完成したのが『生きがいについて』です。
生きがいが失われていく現代
終戦直後は食べるためだけに全力疾走した時代で、生きがいについて自分に問いかける余裕のある人はいませんでしたが、高度経済成長によってものを考えるゆとりのある人が増えるにつれて、虚無感に悩まされる人も増えていったようです。
その虚無感からくる悩みはいまも増え続けている感じがするのは、わたしだけでしょうか?
機械やAIの発達による自動化、モノに溢れる生活、一極集中型の生活による自然からの離反、などによって、自然の中で自然に生きる喜びや、自らモノを創造するよろこびなど、人間の生きがいの源泉であったものがどんどん失われていく現代。
「この大きな流れの中で、人間の生きがいの問題はますます大きくのしかかってくる」と当時の神谷さんは書いており、わたしたちはまさしくその真っ只中を生きています。
生きがいとはなにか?
わざわざ研究などしなくても、はじめからいえることは、人間がいきいきと生きて行くために、生きがいほど必要なものはない。それゆえに人間から生きがいを奪うほど残酷なことはなく、人間に生きがいを与えるほど大きな愛はない。
と神谷さんは言います。
ではそもそも、生きがいとはなんなのでしょうか?
辞書によると、「世に生きているだけの効力、生きている幸せ、利益、効験」とあります。
これを英語、ドイツ語、フランス語などに訳そうとすると、「生きるに値する」とか「生きる価値または意味のある」などとするほかはなく、生きがいという言葉は、どうやら日本語だけにあるようです。
「ひとくちには言い切れない複雑なニュアンスを表現している日本人らしい言葉であり、曖昧さと、それゆえの余韻とふくらみがある」と神谷さんは書いています。
あなたの生きがいはなんですか?
「この人にとって何が生きがいとなり得るか?」とたずねられても、決まった答えはないですよね。
つかみどころのない問題であり、本書は答えを押し付けようとするものではありません。
本書『生きがいについて』は、生きがいという曖昧なものをいろんな角度から眺め、一緒に考えながら、答えのない問いの真相に少しでも近づいていくための助けになる本です。
ここで、生きがいというものについて、個人的にイメージしやすかった例を、本書から引用します。
人間はただ真空のなかでぽつんと生きているのは耐えがたいもので、自分の生きていることに対して、自分をとりまく世界から、なにか手ごたえを感じないと心身共に健康に生きて行きにくいものらしい。宇宙の孤独な旅びとも自分を見守る地球上のひとの眼を感じればこそ、無重力への冒険に生きがいを感じるのであろう。
生きがいを感じる心
本書では、「生きがい」と「生きがい感」という言葉を明確に分けて使っています。
「この子はわたしの生きがいです」など生きがいの源泉や対象となるものを差す場合には「生きがい」という言葉を使い、生きがいを感じている精神状態を意味する場合には「生きがい感」という言葉を使っています。
生きがい感の形成に重要なもの
感情的なものと理性的なもの、どちらが生きがい感の形成に重要なのか?
この質問に対する神谷さんの答えは、「やはり感情であろう」ということでした。
あなたにも経験があると思いますが、先に理屈が立ったとしても、感情がそれについていくことはほとんどありません。
たとえば、なんとなく入学した大学を卒業して、なんとなく就職先を決めなければならない場面では、「生きて行くために会社に入って働かなきゃ」という理屈で動こうとしています。このとき感情はまったくついてきておらず、むしろ感情を抑え込んで道を決めようとしています。
逆に、「こんな人になりたい!」「困っている人の役に立ちたい!」「モテたい!」など、突然なんとも説明のつかないよろこびが身体中を駆け巡ることがあるときは、まず行動が起こり、そのあとに理屈がついてくるもの。
もし心のなかにすべてを圧倒するような、強い、いきいきとしたよろこびが「腹の底から」すなわち存在の根底から湧き上がったとしたら、これこそ生きがい感のもっとも素朴な形のものと考えてよかろう
と神谷さんは言います。
生きがいを求める心
生きがいを求める心は、
- 生存充実感への欲求
- 変化への欲求
- 未来性への欲求
- 反響への欲求
- 自由への欲求
- 自己実現への欲求
- 意味と価値への欲求
という人間の内在的な7つの欲求でできており、これらの欲求のいずれかが、あなたを生きがいの探求へと向かわせています。
また、神谷さんは生きがいとなりうるものの大部分にみられる共通した6つの特徴として、
- 人に生きがい感を与える
- 実利実益とは必ずしも関係がない
- 自発性
- 個性的
- 人の心にひとつの価値体系をつくる
- その人独自の心の世界をつくる
を上げています。
生きがいを求める7つの欲求と、生きがいの6つの特徴から個人的に感じたのは、「生きがい感とは極めて個人的な感情である」ということ。
そして、個人的な感情であるがゆえに、最愛の人を失ったり、難病という運命を背負ったり、命をかけて取り組んだ夢が叶わないとわかったときに感じる、行き場のない怒り、絶望、孤独という感情によって、生きがいを失い、生きる希望を失ってしまうことがある、ということ。
ここで、神谷さんは切り込みます。以下本書から抜粋しつつ引用させていただきます。
「長島愛生園」の調査用紙に、毎日の生活について、「時間を潰すのに苦労している」「ただ娯楽に費やしている」と書いた人たちのケースでは、その状況や環境からそうなることが理解できる。
けれど、これとあまり違わない姿が都会の健康者の中にもたくさん見られる。たとえば平日の昼間に映画館、デパートの屋上、パチンコ屋、あちこちの観光地の裕福な旅行者の中にもそういう人はいて、時間を持て余している人が多いのにおどろかされる。
これらの人の中には、失業者もいるだろうし、職場から逃げ出したり、普通の生活がどうしてもできないという人もいる。
職の有無を問わず、生きがいを失った人は、すべて人生からあぶれた失業者であり、普通の人々の忙しそうなにぎやかな世界からのけ者にされ、そこに戻りたくても戻れず、そうかといって、どうやって生きて行ったらいいのか、それさえもわからない。
わたしなんかこの世に存在する必要はないのだ。
ただひとの邪魔になり、目障りになるだけだ。
こういう思いに打ちのめされている人に必要なのは、慰めや同情や説教ではなく、金や物も役に立たない。彼らはただ、自分の存在は誰かのために、なにかのために必要なのだ、ということを強く感じさせるものを求めてあえいでいる。
自分にはもう生きている意味がないと自殺をしようとしていた青年がいました。
彼は、子どもが海におぼれそうになっているのをたまたま救ってやる巡り合わせとなり、「自分でもまだ他人の役に立ち得るのだ」という発見によって、自殺することをやめ絶望から立ち上がった、という話があります。
生きがいの発見は、生存目標を思い出させ、人を精神的な死からよみがえらせます。
新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、誰にせよ、天の使者のようなものなのかもしれません。
すべての人に存在意義がある
本書の「おわりに」の直前に書かれていた神谷さんのお話を引用します。
人間の存在意義は、その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように、ただ「無償に」存在している人も、大きな立場からみたら存在理由があるに違いない。
自分の眼に自分の存在の意味が感じられない人、他人の眼にも認められないような人でも、わたしたちと同じ生を受けた同胞なのである。
もし彼らの存在意義が問題になるのなら、まず自分の、そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。
そもそも宇宙のなかで、人類の生存とはそれほど重大なものであろうか。人類を万物の中心と考え、生物の中での「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。
現に私たちも自分の存在意義の根拠を自分の中には見いだしえず、「他者」のなかにみいだしたものではなかったか。五体満足の私たちと病みおとろえた者との間にどれだけのちがいがあるというのだろう。
個人的な話になりますが、、、
たぶんわたしは、自らの生きがいについて問われることを、恐れています。
だから、その矛先を他人に向けたり、他人の話にすり替えて、日々逃げ惑っています。
「生きがい」について、はっきりと語れない自分を認めるのが、怖いのかもしれません。
正直に告白すると、わたしは脳梗塞で寝たきり状態の父を見て「この人には、生きている意味があるのだろうか」と思ったことがあります。
自分の生きがいのことを棚に上げておきながら、いったい何様なのでしょうか。
揺るがない事実として断言できることは、父のおかげでわたしはいま生きている、ということ。
加えて、現在も何とか生きながらえてくれている父親のおかげで、家族があつまり、会話が生まれ、生きていく元気をもらっているということ。
あなたのおかげで、わたしはいま、生きています。いつもありがとう。
まとめ
生きがいについての問題は、神谷さんが精神科医として向き合ったハンセン病の患者さんや、生きている意味を見い出せないと悩んでいる人たちだけの問題ではなく、わたしたちみんなの問題です。
あなたの生きがいは、なんですか?
あなたにもわたしにも、いまここに存在している理由が必ず、ある。
それがわかる日まで、共に生きましょう^ ^
動画版はこちら▼