他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分には受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること。他者の臭くて汚い靴でも、感情的にならず、理性的に履いてみること。とはいえ、本当にそんなことはできるのだろうか。(本書より引用)
はいこんにちはシンプリィライフです。
今回は、ブレイディみかこさん著『他者の靴を履く-アナーキック・エンパシーのすすめ-』について解説させていただきます。
本書は、2019年の著書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の副読本とも言える、とみかこさんは言います。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』は本屋大賞2019ノンフィクション大賞、毎日出版文化賞特別賞などを受賞した本。その中で、252ページの中のたった4ページしか登場しなかった「エンパシー」という言葉が、以後多くの人々の間で語り合われるようになったそうです。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』byブレイディみかこ
なぜエンパシーという言葉にそんなにインパクトがあったのか?
みかこさんは、
「共感」ではない他者理解があるよな、ということを前々から感じていた人が多く存在し、それを言い表せるキャッチーな言葉がなかったところに、「エンパシー」というカタカナ語が「誰かの靴を履く」というシンプルきわまりない解説とセットになって書かれていたので、ストンと腑に落ちた人が多かったのではないか。
と分析しています。
ただ、たった4ページで「エンパシー」という奥深い言葉のさわりだけ書き、話題をつくってしまった身としては、エンパシーをもっと掘り下げて自分なりに思考した文章を書くべきではないか?との思いで筆を取り、完成したのが本書『他者の靴を履く』なのです。
『他者の靴を履く-アナーキック・エンパシーのすすめ-』byブレイディみかこ
文章が苦手な方はこちらの動画をご覧ください!
本書が伝えたいこと
本書が伝えたいことは、エンパシーを「自分を手離さず他者の考え・感情を理解する「能力」として身に着けていこうよ。エンパシーはわたしがわたし自身のままで、自由にこの社会を生きていくためのツールになるよ。」ということ。
だけど、エンパシーには多様な解釈や定義がある上に、扱い方を間違えると毒にもなりうるややこしいものなんです。
では、どうしたら有効活用できるのでしょうか?
結論は、
です。
と思ったかもしれませんが、大丈夫です!
ここからひとつひとつ丁寧に解説していきますので、ぜひ最後まで見ていってください。
ではここからは、3つのポイント
- エンパシーの意味・シンパシーとの違い
- 取扱注意!エンパシーの毒性
- アナーキック・エンパシー
の順番で解説していきます。それでは行ってみましょう!
ポイント1.エンパシーの意味・シンパシーとの違い
オックスフォードラーナーズディクショナリーズ(英英辞典)によると、エンパシーは「他者の感情や経験などを理解する能力」となっています。
そして、シンパシーとは、
①誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと
②ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為
③同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解
となっています。
エンパシーとシンパシーの具体例
たとえば英国では、児童の性的虐待事件が起こると「そんな犯人は許せない」と感情的になり、容疑者が護送される車を取り囲んで生卵をぶつけたりする人が出てくるそうです。
このような自分自身の感情を被害者に重ねて怒り、実際の行動にまで発展してしまうは「シンパシー」のほう。
いっぽう「被害者や家族の視点で考えてみると、不幸な事件を早く忘れたいかもしれない。知らない人たちが怒って騒いでいればいつまでもニュースになってしまって迷惑なんじゃないか…」と冷静に認識できる能力が「エンパシー」です。
シンパシーは「かわいそうな相手」や「共鳴する相手」に対する感情的なもの、それに基づく行動のこと。
エンパシーは「かわいそうな相手」とか「同じ意見を持っている人かどうか」などは関係なしに、「その人の立場からはどんな景色が見えるだろう、どんな考え方だろう?」と想像してみる知的な作業のことです。
エンパシーの定義は日本でも英語圏の国々でも曖昧
では、このふたつの言葉は、日本ではどういう風に解釈されているのかというと、エンパシーもシンパシーも「共感」と訳され、どちらも同じように感情的情緒的な、単なる「お気持ち」という印象を持ってしまっているんです。
エンパシーは、日本人には「身に着ける能力」ではなく、「内側から湧いてくる感情的なもの」のように聞こえてしまっているということ。
とはいえエンパシーの定義の曖昧さ問題は、日本だけではなく、実は英語圏の国々も抱えているんです。
エンパシー4つの定義
エンパシーには主に
①コグニティヴ・エンパシー
日本語では「認知的」エンパシーと訳されている。「他人の靴を履いて」他者の考えや感情を想像する力であり、その能力をはかる基準は想像の正確さだと心理学の分野では定義されている。
②エモーショナル・エンパシー
日本語では「感情的」エンパシーと訳される。これは、オックスフォードラーナーズディクショナリーズでいうところの「シンパシー」の意味とかなり被る。
③ソマティック・エンパシー
他者の痛みや苦しみを想像することによって自分もフィジカルにそれを感じてしまうというもの。例えば、誰かが足をひどく怪我したのを見て、自分の脚も痛くなるというような反応。
④コンパッショネイト・エンパシー
他者が考えていることを想像・理解することや、他者の感情を自分も感じるといったエンパシーで完結せず、それが何らかのアクションを引き起こすことをいう。
の4種類の定説が存在します。論者の数だけ定義があるなどと言われたりするほどなのですが、それもそのはず、「エンパシー」という言葉の歴史は浅く、生まれてからわずか100年ほどしかたっていません。
1900年のはじめ頃から心理学の分野で言葉の定義が議論され、1955年のリーダーズ・ダイジェスト誌で、エンパシーを「自分自身が感情的に巻き込まれて判断力に影響を及ぼすことなく、他者の感情を理解する能力」と定義されました。
これは現在のオックスフォードラーナーズディクショナリーズの定義や、コグニティヴ・エンパシーの定義と重なり、ブレイディみかこさんの言う「他者の靴を履く」エンパシーとは、まさに「コグニティヴ・エンパシー」のこと。
以下みかこさんの言葉から引用です。
他者を他者としてそのまま知ろうとすること。自分とは違うもの、自分には受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること。他者の臭くて汚い靴でも、感情的にならず、理性的に履いてみること。とはいえ、本当にそんなことはできるのだろうか。
この疑問が、本書におけるエンパシー探求の出発点となっています。
本書におけるエンパシーの定義は、
ということがわかりました。
ポイント2.取扱注意!エンパシーの毒性
エンパシーの取り扱いには注意が必要です。
ポイント1で紹介した4種類のエンパシーの中でも、無意識・無自覚に相手の感情に寄り添ってしまうような、「シンパシー」と同じ意味を持つ「エモーショナル・エンパシー」は、あなたの精神を疲弊させ、自己を喪失させ、抑圧的社会を生み出すリスクを持っています。
無意識・無自覚なエンパシーの発動による弊害は大きく2つ。
①道具として扱われてしまう
哲学者ニーチェは、『善悪の彼岸』という本の中の「207 中身のない人間」において、
客観的な人間、つまりエンパシーに長けた人は、鏡であり、自己目的ではない。たしかに貴重な存在として扱われるが、別の人間に使われるべき道具としての人間に過ぎない。
エンパシーに長けた人は、相手を映すだけの受動的な鏡になって自己を喪失する。
というようなことを書いています。
たとえば、エンパシーに長けた人が、「売上100億円を何が何でも達成するんだ!」とか「貧困をこの世から絶対になくすぞ!」というような強烈な思いを持つ他者に出会うと、無意識にエンパシーを発揮して、その人の思いが自分の中にもあったかのように感じてしまいます。そうやって、エンパシーに長けた人は自分を明け渡してしまうのだ、というのがニーチェ論の解釈です。
エンパシーに長けている客観的な人は貴重な存在として扱われますが、自己目的がないために道具として扱われてしまう可能性があります。
②気づかぬうちに搾取されているという状況に陥る
アメリカの人類学者でありアナーキストであるデヴィッド・グレーバーは、
長いスパンで歴史を振り返ると、労働者階級は裕福な家族の世話をする仕事をしてきた階級だった
と説いています。
メイドや清掃人、料理人、靴磨きなど、裕福な人々に雇われ、ケアすることで生計を立てていた人が多かった。で、ケア労働をする人たちというのは、雇用主の気持ちを推し量り、相手がしてほしいことをしたい、喜ばれることをしたいと思い、相手の靴を履いて考えるわけです。
また、旅客機の客室乗務員やサービス業従事者、コールセンターや秘書に加え、介護士や看護師、保育士、教員などなど、いわゆる「感情労働」と呼ばれる仕事に従事するひとたちも同じく、目の前の相手をケアするのが当たり前のこととしてしみついています。
それとは逆の、富と権力を持つ人々は、下々のことなど気にしない人が多く、人の顔色をうかがって生きていく必要がありません。
他者の靴を履くことと他者の顔色をうかがうことが混ざり合い、エンパシーが無意識に発動されてしまうと、下の人間は上に立つ人間のことを考え、同情が生まれます。
そうなると、究極的には相手にひどいことをされても相手の背景にある事情を考えてしまい、自分に降りかかる苦しみを我慢することができてしまうのです。
以下本書より引用です。
そして、労働者階級の人々に染みついている「助け合いの精神」を刺激するようなスローガン、たとえば「未来の世代のためにみんなで我慢して借金を減らしましょう」などを使って政府が福祉や医療などへの投資をケチっている理由を説明すると、なぜか当の苦しんでいる庶民のほうが「じゃあみんなでがんばって我慢しよう」と政府を支持してしまうのである
無意識のエンパシーには、強烈な自我を持つ相手を自己同一視し、気づかぬうちに搾取されているという状況に陥るリスクが潜んでいます。
さらに悪いことに、そのままエンパシーを搾取されきった人は、組織や政府に従順になり、上の決定に抗わないことが常識になっていきます。
ひとたびそうなってしまうと、上の決定に抗う人々が逆に他者への思いやりのない「邪悪な人」に見えてきてしまい、「出る杭は打つ」という行動に出ることもあるでしょう。
エンパシーは使い方によっては、個人を組織や政府に従属させ、上からの支配を維持・強化し、抑圧的な社会をつくるためのツールにもなり得るということ。
そして、このエンパシーの毒性は、個人と組織・政府との関係だけでなく、SNSでの炎上や恋人・配偶者・親によるDV、テロリストなど、さまざまなところに見え隠れしているものであり、取り扱いには十分注意する必要があります。
ポイント3.アナーキック・エンパシー
これまでの解説から、エンパシーは良いものとか悪いものとかそういう議論をするのは無意味で、薬にも毒にもなりうるから意識して扱ったほうがいいよね、ということがわかってきました。
ここでようやく、アナーキック・エンパシーについての解説です。
「エンパシーのことはなんとなくわかってきたけど、アナーキックとかアナーキーの意味がさっぱりわからない」ですよね。
アナーキーという言葉の意味を調べてみると、無政府主義、無秩序、無支配などと書かれていました。でも、個人的には本書で使われているアナーキーの意味とは少しニュアンスが違うような感じがします。
大正時代を生きたアナーキスト金子文子さん
本書では、大正時代を生きたアナーキストである「金子文子さん」のことが何度も引き合いに出されています。
彼女の詳細についてはここでは割愛しますが、歴史に残る大きな事件に巻き込まれ、獄中で23歳の若さで亡くなった人で、『金子文子と朴烈(パクヨル)』という映画にもなりました。
金子文子さんは、
「わたしはわたし自身を生きる」
と宣言し、
「self-governedセルフガバンド(自らが自らを統治する)」
のアナーキストとして生きた人であると本書では紹介されています。
つまりアナーキストとは、「わたしはわたし自身を生きる」という生き方を貫いている人、であるとここでは解釈しました。
ですがそうなると、「わたしはわたし自身を生きる」アナーキーと「他者の感情を理解する」エンパシーは相反する言葉のようにも聞こえ、アナーキック・エンパシーという言葉は成り立たないのではないかとも思えてしまいますよね。
「持守(チィショウ)的な無政府主義者」オードリー・タンさん
ここで私が思い出したのは、自らを「持守(チィショウ)的な無政府主義者」と称している台湾のデジタル担当大臣オードリー・タンさんの言葉。
タンさんは、アナーキスト・無政府主義者の意味を、
「私は人に強制しない」
「他人も私に強制することはできない」
と捉えており、命令したりされたりせず、どちらも平等な話し合いや理解で公共の職務を進めていく状態のことを指していると言っています。
そして、「持守(チィショウ)」について、タンさんは
他の文化を貶める(おとしめる)ことなく一緒に進んでいく、それが私のいう「持守」です。
と言います。続けて、
人は経験を重ね、自らの文化領域を超えて他の文化に触れることで、あらためて自分が育ってきた過程を振り返ることができる。それが「文化に跨る(またがる)」こと。
ところが「自分の文化こそが正しい」と主張し、正統性や進歩のために他の文化を壊すならば、一見それは進んでいるようにみえても、他の文化からは「”持守”の価値がない」とみなされる。
ということをおっしゃっていました。
<参考記事>
「世界が注目する台湾の頭脳」オードリー・タンが抱く、日本への特別な思い | WEB Voice
アナーキック・エンパシーとは
話をアナーキック・エンパシーに戻しましょう。
「わたしはわたし自身を生きる」という意味を持つアナーキーと、「他者の靴を履き、他者の感情を理解する能力」という意味を持つエンパシー、このふたつの言葉は、一見すると相容れない言葉のように思えます。
ですが、タンさんの「持守(チィショウ)的な無政府主義者」の話を聞いたあとでは、
と理解できます。
他者の考えを理解し、他者を貶める(おとしめる)ことなく一緒に進んでいかなければ、いずれ社会から「持守の価値がない」=守る価値のない人間と判断され、わたしがわたし自身を生きる場所がなくなってしまうのだ、ということでしょう。
エンパシーにはアナーキーが必要だし、アナーキーにはエンパシーが必要。
アナーキック・エンパシーとは、
とわかりました。
みかこさんは、
実は両者は、繋がっているというより、繋げなくてはならないものなのではないか。アナーキー(あらゆる支配への拒否)という軸をしっかりとぶち込まなければ、エンパシーは知らぬ間に毒性のあるものにかわってしまうかもしれないからだ。両者はセットでなければ、エンパシーそれだけでは闇落ちする可能性があるのだ。
と言っています。
まとめ
はい、というわけで今回はブレイディみかこさん著『他者の靴を履く-アナーキック・エンパシーのすすめ-』を参考に、エンパシーを有効活用するための基礎的な考え方について解説してきました。
おさらいしますと、
ポイント1では、エンパシーの意味について解説しました。
本書では、エンパシーとは、「相手の心を理解しようとする」つまり「他者の靴を履いて」他者の考えや感情を想像することであり、それは能動的に意識的に活用する能力だと定義しています。
ポイント2では、エンパシーには毒性があるよ、という話。
無意識・無自覚なエンパシーは、巡り巡って自分たちの首を締めることに繋がる可能性がある。上からの支配を維持・強化し、抑圧的な社会をつくるためのツールにもなり得るんだ、ということがわかりました。
そしてポイント3では、アナーキック・エンパシーについて。
「わたしはわたし自身を生きる」という意味を持つアナーキーと、「他者の靴を履き、他者の感情を理解する能力」という意味を持つエンパシーは、つなげなくてはならないものである、ということがわかりましたね。
個人的な考察
個人的に本書を読んで得た最も大きな気づきは、
ということ。
エンパシーは、自分の世界の見方に深みや広がりを持たせるものであり、他者理解を通じて自己理解を深めることができるもの。
「アナーキック・エンパシー」は、
「迷惑をかけずに生きなさい」「わがまま言ってはいけません」という類の世間からの圧力を息苦しく感じている人が、そこからスルリと抜け出すために、「わたしがわたし自身のままで自由にこの社会を生きていく」ために身に着けておくべき能力であるとも言えるでしょう。
最後にみかこさんの言葉を引用します。
私の世界とは違う世界がある。世界は広い。きっと、こことは違う世界がある。
(中略)
想像力が「違う世界」の存在を信じることを可能にし、それが人の「根もとにある楽観性」になるとすれば、エンパシーはやはり個人が自分のために身に着けておくべき能力であり、生き延びるためのスキルだ。
ここではエンパシーの意味やその毒性、取り扱うときの注意点について、要点のみの解説しかできていません。
本書には、ブレイディみかこさんが大量の文献や本を読み、思考を深めていったエンパシーの話がギュッと凝縮されている、まさにエンパシーの教科書、エンパシーのトリセツといえる本です。
『他者の靴を履く-アナーキック・エンパシーのすすめ-』byブレイディみかこ
本書を読むことには、この解説を観ることの何十倍何百倍もの価値があるので、解説を見てピンときた方はぜひ本を手に取って読んでみてください!
最後までみていただきありがとうございました。
それではまたー!