歳を食うごとに、自分にこびりついた思い込みや価値観がたくさんあることに気づかされます。
それは長い歳月を掛けて無意識のうちにくっつけられてきたもので、動きを重く鈍くし、ぼくらから自由を奪っています。
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ワケのわからない思い込みをたくさん背負って生きてきたんだな、、、と気づくようになったのは、子どもが生まれて子育てを真剣にするようになってから。
子どもになにかを教えるとき、注意するとき、そのわずかな人生経験の中で生意気にも人生について説こうとするとき、「え?なんでそう思うんだろうか?」と理由もわからずにただ自分が教え込まれた常識を子どもに押しつけようとしている自分にふと気づくのです。
でも、気づいただけでは「しょうがないよね」「これが人生だよね」的な諦めを持って、底なし沼から出ようとはしません。心の中で「自由が欲しい!」と叫んでいるくせに、体はまったく動かさない。もう動かせないと信じてしまっているんです。
そんなぼくみたいな人たちに、是非知ってもらいたい人がいます。
この人の生き方や行動から自然と流れ出る言霊は、底なし沼から這い出ようと覚悟を決める第一歩を踏み出す勇気を与えてくれる。
是非多くの人に知ってもらいたい!という気持ちでまとめてみました。
それでは、世界をリフレーミングしてしまう坂爪圭吾のヤバすぎる言葉をくらって、「生きやすい世界」「自由な世界」を一緒に見つけてみよう。
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1.生きることに意味はない。そこにあるのはよろこびだけだ。
いやだなあと思い続ける日々を送るよりも、やりたいことをやりたいようにグワァーってやって死んだ方が、単純に気持ちいいと思う。太陽は燃えているし、あたたかい空気が流れていて、夏の海も近づいている。生きることに意味なんてなくて、そこにあるのはよろこびだけだと思いました。
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年4月24日
誰よりも早く走ろうとすることや、砲丸を可能な限り遠くへ飛ばすことや、投げられた球を打ち返してホームランを狙うことや、高速のシュートを決めて相手のゴールを奪うことに、何の意味も価値もない。
ただ、そこに確実に存在しているものがある。それが「よろこび」であり、昨日よりも早く走ることができた自分自身や、前はできなかったことができるようになっている自分の存在や、自分の限界を突破したときに感じる圧倒的な手応えを感じる『よろこび』が、確実に内包されている。
だから、ひとは無意味に見えることにでも、否、無意味に見えることだからこそ、全身全霊で自分自身を投げ出して、そこに何かを賭けるのだろう。頭で考えるだけでは決して得ることができないよろこびが、実際に身体を動かすことの中にはある。
実際にやったことがあるひとにはわかるけれど、実際にやったことがないひとには永遠にわからない領域が確実にあり、だからこそ人間は「新しいよろこびに触れる」ために自分の限界を飛び出して、自分の世界を拡張してくれる何かに挑みたいと願ったりする。
走ることも生きることも似たようなものである。生きることに意味はない。そこにあるのはよろこびだけだ。新しいよろこびに触れるために人間は今日も目覚めて、「いま」という瞬間を生きる。
いやだなあと思い続ける日々を送るよりも、やりたいことをやりたいようにグワァーってやって死んだ方が、単純に気持ちいいだろう。太陽が燃えている。あたたかい空気が流れている。夏の海も近づいている。
人生は続く。
2.愚か者でも笑っていられることを証明したい。
大前提として、私は自分のことを欠陥人間だと思っている。そんな人間が、現在「家がなくても人間の生活は成り立つのか」というひとつの実験をしていて、自分の身体を使って試している。
安定した収入もない。家もなければ所持品も少ない。貯金だってもちろんない。このような不安定な生き方をしていると、周囲の大人たちから「お前はバカなんじゃないのか」と怒られる機会が頻繁におとずれる。
要するに「もっとちゃんとしなさい」と怒られるのだけれど、私の性格はねじ曲がっているために「ちゃんとしなさいの『ちゃんと』って何よ!」と思ってしまう。
しかし、ダメな子でも(生まれたからには)生きていかなければいけない。だから、私は「私みたいな人間がひとりくらいいてもいいだろう」と開き直ることにした。そして、自分と同じように周囲とうまく馴染めない欠陥に悩まされているひとがいたら、こんな私をみて「どうしようもないバカでも比較的元気にやれていますよ。だからあなたも大丈夫!」みたいな感じで、ある種の気休めとして機能してもらえたら嬉しいと思うようになった。
ちゃんとしているということは「みんなと同じである」だけの場合が大半で、みんなと同じであることの「安心」だけを求めてしまうと、自分であることの「幸福」は遠ざかってしまう。
人間は根本的に不完全な存在であり、完璧な人間はひとりもいない。自分にも他人にも完璧を求めるのはあまりにも酷だから、お互いの不完全さを許容しあう『ナウシカの大丈夫だよ理論』が蔓延したらきっとハッピーだ。
人生は続く。
3.人間はクソだが、人生は素晴らしい。
乱暴な言葉でまとめると、最近のわたしは「日本は腐っている」と感じる。とりわけ、中高年が腐っている。「あなたのため」とか言いながら、自分のことしか考えていない人間が多い。偽善者ぶることで優越感を持ちたがり、他人をコントロールしようとする人間が…
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年4月18日
とあるシェアハウスのようなものを運営している人は「ここにくれば誰もがほんとうの自分に戻れるんです。みんな幸せな顔をしているんです」などと話していた。正直に言えば、そういう人を見ると「嘘をついているな」と感じる。無理をして元気に振る舞っている(幸せそうに見られることに必死になっている)印象を受ける。
ほんとうに元気なひとは生命力を与えるけど、元気なふりをしているひとは生命力を奪ってくる。無理をしてでも元気でいなければいけないというのは大嘘(害になる場合が多い)で、見た目はおとなしい人だとしても「ほんとうのこと」を話せる相手と過ごす時間は、生きる元気を与えてくれる。
乱暴な言葉でまとめると、最近のわたしは「日本は腐っている」と感じる。とりわけ、中高年が腐っている。「あなたのため」とか言いながら、自分のことしか考えていない人間が多い。偽善者ぶることで優越感を持ちたがり、他人をコントロールしようとする人間が多い。
目的もなく群れたがる人間が多い。他人に媚びて好かれようとする人間が多い。自分の弱さを他人に承認してもらいたがる人間が多い。自分の中にある醜さを直視しないで「ありのままで」などとほざき続ける人間が多い。口先ばかりで実際には何もやらない人間が多い。誰かが何かをしてくれることを期待しているばかりで、自分からは何も与えようとしない人間が多い。
いつまで傷の舐め合いをしているつもりなのだろうか。いつまで悩み、いつまでごまかし、いつまで周囲の人間に媚び続ける(自分に嘘をつき続ける)日々を過ごし続けてるつもりなのだろうか。
他人からの評価や共感や承認を求めて彷徨うなんて、生き方としてダサ過ぎる。わたしは何かに中指を突き立てている。誰かの承認を求めたり、誰かを承認するために生きていたいとは思わない。自分の価値は自分で決める。重要なのは「悩む」ことよりも「生きる」ことだ。
人生は続く。
4.失敗して、ニッコリと笑う。それが真の男である。
うまくやろうとするのではなく「失敗してもかまわない、よし、失敗してやろう」と思えばいいのだ。そう思えば、何だってできる。失敗して、ニッコリと笑う。それが真の男である。
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年4月14日
要するに、これは「自力」から「他力」へのパラダイムシフトである。いままでは「他人に迷惑をかけてはいけません!」とか「自分のことは自分でやって一人前(誰かに頼るのは半人前)」とか「みんなと仲良くしなければいけません」とか、自分を打ち出すことよりも周囲に合わせることの方が重要視されてきた。しかし、周囲に合わせるあまりに「自分が死ぬ」ことになってしまったらもともこもない。
何をするにしても重要なのは『うまくやろうとしないこと』である。そんなことよりも『失敗してもいいのだ』という土壌を自分の中に養うことの方が圧倒的に大切なことであり、大胆に失敗してやればいいのだ。
うまくやろうとするのではなく「失敗してもかまわない、よし、失敗してやろう」と思えばいいのだ。そう思えば、何だってできる。失敗して、ニッコリと笑う。それが真の男である。
これは非常に重要な考え方である。成功しようとするのではなく、失敗しなければいけない。「さかつめさんは偉そうなことを言いますね!家ないのに!」という声が聞こえてくる。耳をすませてはいけない。
人生は続く。
5.本気を出せないことが生命の実感を遠ざけている。
昔は多くの人が「学級委員長」的な優等生を毛嫌いしていたはずだ。教師に媚びて内申点を稼ごうとしているタイプの人間(甲本ヒロト的に言えば「大人に褒められるようなバカ」)になんて絶対になりたくないと思っていたけれど、いつの間にか、年齢を重ねるにつれて皆が真面目になってしまう。
そして、社会的にも「ウケがいいもの」だけをやるようになり、上記にあげたような「丁寧に生きる」とか「規則正しい生活」とか「適度な運動」などに代表される模範的で優等生的なライフスタイルを目指し始める。
優等生は圧倒的に正しい。しかし、私は正しい人よりも楽しい人と一緒にいたい。楽しい人は、必ず何処かが狂っている。その人だけが持つ「偏愛的なもの」に私は惹かれる。皆が優等生的なライフスタイルを心がけてしまったら、標準的な人間は大量生産されるものの、世界が退屈なものになってしまう。
常識と呼ばれるものは偏見のコレクションに過ぎず、結局、正しいかどうかなんてものはどうでもよく、自分がそうしたいと心の底から思うかどうか(人間関係ならば「その人と一緒にいたい」と思うかどうか」)がすべてであり、自分の内側から湧き出す衝動にどれだけ正直であれるかが重要になる。
他人に嫌われないように、無理をして愛想笑いを続けたり「本当は楽しいと思えていない場面で」楽しそうな振りをすることがある。そういうことをするのも、そういうことをしている人を見るのも、自分には耐えられないものになった。自分を殺して周囲と合わせることは「調和」でもなんでもなく、それはお互いに妥協し合っているに過ぎない。群れるのは好きじゃないし、馴れ合いの中に成長はない。
承認欲求こそやっかいなものはないと思う。他人に認められることがゴールになってしまうと、他人に認められない限り自分がやっていることには何も価値がないことになる。乱暴な言葉になるけれど、そんなのはクソだと思う。自分軸と他人軸があるとすれば、自分軸で生きない限り永遠にぶれ続ける。。
他人がどう思うかという相対的な評価に惑わされることなく、自分の中での絶対的な価値基準を養うこと。所詮、生まれてから死ぬまでの人生なのであり、重要なのは「他人軸」ではなく「自分軸」で生きることであり、余計なノイズやつまらない常識に縛られて自分の人生を無駄にすることもない。
人生は続く。
6.自分を表現できる人間は、自分しかいない。
自分が嫌だと思うことには、はっきりと嫌だと言う。同じように、自分が好きだと思うことに対しては、周囲の人間が何と言おうが「自分はこれが好きだ」と宣言する。周りがどうあれ自分自身は、言いたいことを言う、やりたいことをやる、それだけのことで人間は清々しく生きることができると思いました。
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年4月21日
自分を殺して他人に好かれるよりも、自分を出して他人に嫌われるほうがずっと良い。皮肉なことに、誰かに媚びて(自分を偽って)他人から好かれようとするひとほど、結果的には嫌われている場合が多い。理由は単純で、その人自身の『実体が見えない』からだ。嘘は見抜かれる。必ずツケを払わされる瞬間が訪れる。自分自身を突き出した時に生まれる結びつきの中には、圧倒的なリアルがある。
正しいとか正しくないとかよりも、大切なのは「このひとと同じ時間を過ごしたいと思うかどうか」になる。どれだけ正しいことが言えるひとでも、楽しくなければ一緒にいたいとは思えない。結局は『人柄』が何よりも重要であり、そのひとが『模範的な人生を送っているかどうか』みたいなものはどうでもよくなる。
嫌いなひとにエネルギーを使うよりも、自分が好きなひとにエネルギーを注ぐこと。自分が嫌だと思うことには、はっきりと嫌だと言う。同じように、自分が好きだと思うことに対しては、周囲の人間が何と言おうが「自分はこれが好きだ」と宣言する。周りがどうあれ自分自身は、言いたいことを言う、やりたいことをやる、それだけのことで人間は清々しく生きることができる。
人生は続く。
7.人間は、目の前にいる相手のことを本当の意味で思うことは出来ない。
うまくやろうとか考えてしまうから行動が鈍る。成功するためではなく「よし、失敗してやろう。傷ついてやろう」と思って突撃すれば、意外と清々しい結果になることが多い。大切なのは「うまくやること」なんかではなく、「俺はやった」という自分自身に対する絶対的な手応えなのだと思いました。
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年3月17日
私は何かを恐れていたのかもしれない。人間が行動の原動力に出来るのは「不安」か「希望」の二種類しかない。夜も深まる頃、ひとりきりで考えごとをしていると思考はどうしてもシリアスでネガティブなな傾向を帯びる。
信頼できる相手がいれば、深刻な事柄も笑いながら話すことが出来る。自信には二種類あるとわかったんです。一つは他の人から与えられる自信。生きていてもいいんだよ、という自信。二つ目の自信は、生きていけそうだ、という自信。自分自身でつかまないといけない自信です。
「大事な人がいつまでも側にいるとは限らない」ということ。ひとりでも生きていけるようになるということが、結果として周囲の誰かを救うのかもしれない。そういうことを考えていた。人間は目の前にいる相手のことを思うことは出来ない。遠く離れることで、はじめて大事な何かを思うことが出来るようになるのだろう。
人生は続く。
8.身体を動かす・ものをつくる・自然に触れる
私は過去に椎間板ヘルニアと躁鬱病と統合失調症のトリプルパンチで半年間寝たきりの生活を送っていました。過食が原因で一ヶ月に20キロ太ったものの、三ヶ月で15キロの減量に成功し、奇跡の復活を遂げることが出来たのは自分自身の「貧乏性」に依る所が絶…
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年1月29日
人生に行き詰まりを感じた時に、現状を打開するのは「頭で考える」ことではなかった。
私がビリーズブートキャンプで身体を動かすよろこびを取り戻すことが出来たように、私が料理を通じてものをつくるよろこびを取り戻すことが出来たように、私が散歩を通じて自然に触れるよろこびを取り戻すことが出来たように、自分の人生に何かしら行き詰まりを感じている状態において、再び歩き出すためのエネルギーを獲得するためには、普遍的なよろこびに触れる必要があった。
もっと好きに生きなよ。感じる心がもったいないじゃないか。
「悲しみも苦しみも、いつか必ず舞台で活かせる時が来る」ー 生きていれば様々な目に遭遇する。良いこともあれば悪いこともあるが、過ぎてみればすべてが笑い話になる。今までの人生がどうにかなってきたように、これからの人生も絶対にどうにかなる。この世で一番もったいないのは「自分の心を殺してしまうこと」であり、元来の貧乏性である私は「誰よりも自分の人生を味わい尽くして死んでやりたい」と思っている。灰になるまで、人間であることを楽しもう。
人生は続く。
9.親が子供に臨むことと、子供が親に望むことは一致している
「自分の領域」と呼ばれるものがあって、家族とか恋愛は距離が近い分「平気で相手の領域を犯してしまう」ものなのだと思う。その見極めをどうするか、自分の領域を尊重することが、結果として相手の領域を尊重することにもつながるのだと思いました。
Posted by 坂爪圭吾 on 2015年2月13日
私は過去に躁鬱病と統合失調症と椎間板ヘルニアのトリプルパンチで、半年間の寝たきり生活を送っていた時期がある。実家で療養していたので、私は実家で死んだ魚の目をして暮らしていた。過食によって体重も目に見えて増加していたので、まるで腐ったトドのような体型をしていた。
そんな状態においても、私の母親は「あんたは大丈夫だ」と言い聞かせ続けてくれた。当時の私は「大丈夫なわけがないじゃないか」と思っていた。「他人事だと思って…(誰にも自分の気持ちなんてわかるはずがない)」と自分自身を閉ざしていた。
母親の言葉を正直に受け止めることなんて微塵もできなかったが、結果として(完治まで三年かかると言われた症状でさえも)半年間で治すことができた。あの時、私の母親が「あんたは大丈夫だ」と言い聞かせ続けてくれたことが、そのように思い続けてくれていたことが、どれだけ自分の力になっていたのだろうかと思うと、母親には頭が上がらなくなる。
もしも当時、私の母親も一緒に「この子は大丈夫だろうか」と思っていたら、これだけ早い回復は出来ていなかったように思う。私は「私はダメな人間だ」と思っていたが、母親は違った。「あんたは大丈夫だ」と思い続けていてくれたことで、結果的に私は復活することができた。
私は結婚をしたことがない。こどもを持ったこともないので、親と子の関係で言えば「こどもの立場」からの意見しか言うことが出来ない。しかし、実際のところは『親が子供に望むことと、子供が親に望むことは一致している』と思う。それは「完璧であって欲しい」ということではなく、「(不完全でも構わないから)楽しそうに生きていて欲しい」というシンプルな祈りであると私は思う。
ー 楽しそうに生きていて欲しい。
大切な人が苦しそうに生きているのを見て、よろこびを覚える人間は少ないと思う。私は、私の親に「お前を育てるために自分は嫌な仕事を我慢してやっているんだぞ!」なんて言われたくない。そんなことを言われたら、私だって「お前たちが生みたくて生んだんだろうぐわぁ!(頼まれて生まれてきた訳じゃねーし!)」と反発したくなる。
逆に言えば、親が楽しそうに生きている姿を見ていれば、それを目にするこども側も「(たとえ経済的には貧しいものであったとしても)人生は生きるに値するものだ」という確かな手応えを、勝手に学び取るものだと思っている。
誰だって「不幸そうに生きている」人から何かを学びたいとは思わない。極論、子育ての基本は「楽しそうに生きている自分の姿を見せること」であり、あとは野となれ山となれ(勝手に見る側が何かしらの解釈をほどこすもの)であり、自分なりの人生に勝手に適応させていくものだと私は思う。
社会の厳しさを語る人間は大量にいるが、社会の素晴らしさを語る人間は極端に少ない。お互いに完璧であることを望むより、(不完全でも構わないから)楽しそうに生きて欲しいと私は思う。小事にこだわるには人生はあまりにも短い。最大の説得力は「自分が選んだ道で楽しそうに生きている姿を見せること」であり、決して「他人の正解を生きる」ことではない。自分自身の正解を生きよう。
人生は続く。
まとめ
たしか2015年の1月に、最後に紹介したブログにSNS上で出会ったと思います。
自分が悩んでいることがバカバカしく思えて、背負っているもので身動きが取れないなんて言っている自分が恥ずかしくなって、ふさぎ込んだ自分が子どもの希望と可能性に満ちあふれた将来を奪っているんだと自覚して、うれしくて悲しくて、涙が出てきた記憶がよみがえる。
いまも坂爪さんの言葉をまとめながら、心にたくさんこびりついている「思い込み」や「偏見」や「常識」や「他者からの評価」や「恐れ」や「ウソ」や「不安」や「不満」や「猜疑心」や「醜さ」が自分という人間を覆い隠して、自分自身を殺しているのだと再認識し、泣けてきました。
本当は一つひとつに自分なりのコメントをつけていこうと考えていましたが、圧倒的な言葉の力による感情のふくらみへの邪魔になるような気がしたのでやめました。
そーなんです。人は本来、自由なんです。
「思い込み」や「くだらない常識」が自由を奪っているだけ。
それに気づかずに、ぼくらは自由を求め、さまよい、叫んでいます。
自由を求める人には、いまこの瞬間に自覚することができた「思い込み」と「くだらない常識」でできた垢を、自分の心から少しずつ剥がしていく作業が必要です。坂爪さんが投げかける強烈な「問い」は、その作業を加速させる。
それではー!