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ライフネット生命の出口社長がどこかでこんな(ような)ことを言っていました。
インプットをしまくれば、水を注ぎ続けた器から溢れ出てくる水のように、いつかアウトプットが溢れ出てくる。だから「インプットの絶対量」を増やすことが大事。
もの凄くイメージしやすい言葉じゃないですか?
これって、入ってきたもの(インプット)を「意識的に」出す(アウトプット)ということではなく、無意識的に「溢れ出る」ものをアウトプットとする、という風に解釈できます。
つまり「自分の器からにじみ出るもの」を生み出そう!ってこと。
人は意識的に何かをしようとすると、「そのままの自分」ではなく「他人から見た自分」を意識して表現をしようとします。これが悪いってことではないと思っていますが、たとえば自分を取り繕おうとすると、緊張して言葉が出てこなかったり、発した言葉に芯がなく一貫性がなかったり、言い訳をして行動が遅れたり、素直になれなかったりします。
ですが、自然体で構え、自分の無意識の中から溢れ出るものに任せると、正直に誠実になれ、緊張は小さくなり、自分が無意識の内に選択して集めた言葉は一貫性を持ち、瞬時の判断により行動が早くなるのではないかと私は思います。
検索してみると、ちきりんさんがブログで出口さんの「インプット重視」発言について、自身の「アウトプット重視」思考との比較分析をされていました。以下リンク。
インプットか、それともアウトプットか – Chikirinの日記
育ってきた環境による違いと分析しています。おもしろい!
確かにアウトプットをするためにインプットの量や質や精度が向上していく、というのはある気がします。でも、そうするとなんのためのインプットかというと、アウトプットするためのインプットになってしまうのではないかとも思う。
そうなると、どんな状況でも無意識によって形作られている自分という存在をにじみ出すことはできないと思います。まあ、あくまで「溢れ出る自分」というものを求めるのであれば、という話ですが、、、
出口さんの言っていることはつまり、まがい物でない「溢れ出る自分」を生み出すために、「インプットの絶対量を増やそう」と言っているのだと私は捉えました。
ちきりんさんの言っている「アウトプット重視」も同じことを言っているのだと思います。
アウトプットが「文章を書く」ということだとすると、文章を書くためにやはりインプットが必要になります。文章を書くということは、入ってきたものを自分フィルターに通してその人の個性や切り口を表現するということ。そのアウトプットは、「インプットしたものをいかに表現するか」という学びに変換され、さらに質の高いインプットになります。
つまり「アウトプットしまくれ!」というのも、アウトプットの質をあげようとする行為がインプットとなるという、学びの良サイクルを回していくものだと考えることもできます。
どっちも同じだけど、私はどっちが好きかと言われると、出口さんの「インプットしまくれ!」かもしれません。こっちは、私にとっては「難しいほうの道」だと感じます。
効率は悪くて時間がかかる道かもしれませんが、「溢れ出てくる」ようになれば、落ち着いた自然体の自分に出会えるハズ。
自分らしい自分、本当の自分のまま生きられるように、どんなことにもチャレンジする心を持って、「インプットの絶対量」を増やしていくことに決めました。
以下は出口さんの自分的に面白そうな著書。読みたい本リストに追加。
あなたの人生の文字盤が見つかることを願っています。
それでは!