ぼくは過去の苦い経験から、男と女が生活をともにすることの難しさを実感している。
生活を重ねることを通じて「目の前の大切な人とどういう関係を結ぶことが、幸せにつながるのか?」ということに興味があり、追求して解明したい欲求を持っていて、一生を通じてチャレンジしなければならない課題だと自覚しています。
一緒に生活していると、いろいろなことがある
男女が一緒に生活すれば「いろいろ」が起こる。
たとえば先日、会社の同僚と戸隠にキャンプに行く予定だった。
ぼくは一緒に住んでいる彼女にもキャンプの醍醐味を味わって欲しくて、彼女も一緒に行くことになった。
だが、出発前日に彼女は「お腹が痛い」と言いだした。それもかなりの激痛のようだ。
出発当日、悩んだ末にキャンプ行きは断念。
二人で一緒に病院に行くことにした。
ここで、ぼくとしては彼女を置いて「ひとりでキャンプに行く」という選択肢もあった。
彼女も、自分のせいで悪いなと思ったのか、「ひとりで行ってきてもいいよ」と言ってくれた。
だけどぼく的には、この状況でひとりで行っても、彼女のことが気になって楽しめないな、と。
キャンプには楽しみに行くのに、それを楽しめないなんて本末転倒なのだ。
これは、もう少し距離のある、たとえば同棲していない男女なら、話が少し違ったかもしれない。
多少は気になるものの、楽しみも苦しみも喜びも痛みも、生活をともにしていなければ共感は薄い。
たぶん、ひとり暮らしをしていれば、自分ひとりの感覚で動きやすいしその場その時間に没頭できる。
でも、生活をともにしているということによって、よくもわるくも自分のことのように共感してしまう。
こういう出来事があると、生活をともにするということは、「わたしたち」の感覚で生きるということなんだと、少しわかってくる。
二人の関係性に「毒」が回るとき
過去にぼくが経験したことなのだが、満たされていなかったり心が荒れていて自分の状態が悪いと、相手の行動や状態や言動に対して背を向けてしまう。
すると、二人の関係性には「毒」が回りはじめる。
ここで、毒が発生するメカニズムについて例をあげて説明しようと思う。
—
ぼくは以前、毎日ブログを更新していた時期があった。
いま振り返ると、当時のぼくは少し心が病んでいて、ブログを書くことで自分を吐き出して、自分が何を考えているのか本当の自分はどう感じているのかをわかろうとしていた。
自分を保つための、大切な大切な時間だった。
そして、ぼくはブログを書くのにとても時間がかかる。
家に帰ってきて、ごはんを食べて、ブログを書き。
朝早く起きて、書いたものを見直して、投稿して、仕事にいく。
家のことはほとんどやらない時期があった。
器用にうまく全部できなかった。
ぼくの状態を知らないパートナーは、当然のごとくムカつくだろう。
「なぜ自分ばかりが苦労をして、相手は好きなことを自由にやっているのか」と思っていたかもしれない。
でも、ブログを書いている側のぼくとしては、相手の気持ちをわかろうともしなかったし、ブログを毎日書かなければ自分を保てなかった。
そして、何かにつけてブログを書くことに文句を言われ、大切な時間に制約が入り、ぼくはムカついて相手を邪魔に思っていた。
—
はい!カット!
(いま冷静に考えれば、説明もなにもない、というかぼく自身が自分の状態を把握できていなかったこの状況なら、ぼくが逆の立場でもムカついていただろうなぁ、と思う。)
ここでは、相手の気持ちに背を向けている状態から、「ムカつく=毒が回る」が起こっている。
ぼくは明らかに「わたし」だけのことを考えて、相手に背を向けた。
そしたら毒が出た。が、毒が出ていることも回っていることにも気づいていない。
そして、どちらが良い・悪いという判断から離れて見てみれば。
相手も「わたし」のことを考えていたのだと思う。
相手の状態や行動からは背を向けたことで、毒が出ていたと思う。
生活をともにする男女の主体は「誰」か?
これは「わたしたち」の問題なのか?
それとも「わたし」の問題なのか?
を考えるのが重要だ。
自分ファーストで考えて、相手に背を向けると、「わたしたち」の苦しみは生まれ、増幅していく。
料理は誰がするのかとか、お金のことや、子育てのこと、掃除のやり方、買い出しの内容、寝る時間、友達と遊ぶ時間、自分ひとりでやりたいこと、仕事のことなどなど、食い違ってうまくいかなかったり。
そのときの機嫌で相手を傷つけてしまったり、思い通りに動いて欲しくて圧力をかけてしまったり、自分の苦しみを分かってもらいたくて自分の話を延々と続けてしまったり。
お互い好き合って生活をともにしたはずなのに、お互いを邪魔に感じる場面も出てくる。
キャンプのくだりで言うと「なんで相手の体調のおかげで、ぼくが楽しむことをあきらめなければいけないのか?」という疑問がわいてくるのだとしたら、それは相手に背を向ける行為だ。
ひとりの人と人として生まれてきて、別々に生きてきたのだから、分けて考えるのが普通であり、それぞれ人生を楽しみたいと思っているはずだから、そういう疑問が浮かんでくることに不思議はない。
主体を「わたし」に置くのなら、生活をともにする相手は、自分の楽しみを奪う人間にもなり得る。
キャンプのくだりでは、ぼくはギリギリのところで主体を「わたしたち」に持っていくことができたから、毒は出なかった。
生活をともにした時点で、「わたし」ではなく「わたしたち」を主体とした問題が増えていく。
そういう認識は常に持っていたい。
毒が回る前に、気づけ
でも、逆に言うと。
自分の状態に気づき、相手に対して背を向けているかどうかに気づくことができれば、毒が回る前に止めることも可能ということだ。
いま生活をともにしている人との間でも、たまに毒が回りそうなときがある。
「あぁ。自分はいま何かに不安になっていて毒々しくなっているな。自分はいま、相手に背を向けて、すべてを否定しようとしているな。」と気づくことがある。
いまのぼくはこんな感じで、完ぺきではないけれど自分の状態に注意を払えていて、毒が出たことに気づいている。
相手に背を向けているかどうかをいつも知ろうとしている。
だから、いまのところは大丈夫だ(とぼくは思っている)し、努力が必要だけどこれからも大丈夫だと思っている。
二人の関係性に回った毒を解毒する方法
自分の状態にも、相手に背を向けているかどうかにも気づかずにいると、毒が出て徐々に徐々に二人の関係性に回ってしまう。
でも、たとえ毒が回ってしまっても、それに気づけたなら遅くない。
ぼくのように、致死量の毒が回っているにもかかわらず、放置していた場合はいったん距離を置いて「わたし」に戻るしかないかもしれないけれど。
少ないうちなら、解毒することも可能だ。
解毒する方法は「二人の関係性が生まれたストーリーを見い出す」ことだ。
なぜ出会って、惹かれ合って、一緒に生活することを選んだのか。
なぜいま、一緒にいるのか。
自分に素直になり、純粋な事実をたどり、一緒に生活することになったストーリーを思い出すことができるなら、毒はまだ致死量に達していないと思われる。
そして、その二人の関係性が生まれたストーリーにいまなお力を感じ、これからの生活をともにする意味や理由を見い出せたならば、解毒できる可能性は、ある。
男と女が生活をともにするための3つの技術
何度も書くけど、ぼくは結婚した相手と生活をともにすることができなくなった経験がある。
本当の自分というものがわからないままに生活を重ねた結果、なぜいま一緒にいるのかがわからなくなってしまった。
二人の関係性が生まれたストーリーや、なぜ出会って、一緒に生活することを選んだのか、思い出せなくなっていた。
暮らし始めたときは、この先もずっと、恋人として、友達として、仕事をしながら社会に貢献していくパートナーとして、生活をともにしていきたいと願っていたハズだったけれど。
関係性が生まれたストーリーを思い出せなくなり、修復不能になった。
でもそれでも、その人と出会った意味やストーリーがあると、いまなら言える。
そのおかげか、ぼくはこの先、いつかどこかで、その人と普通に話ができる日がくると信じることができている。
この経験を踏まえて、好きな人と生活をともにすることに行き詰っている人たちに伝えたい。
男と女が生活をともにすることを続けていくための、3つの技術。
それは、
①二人の関係性が生まれたストーリーを見い出すこと
②二人の関係性が生まれたストーリーを相手に語ること
③自分にウソをつかないこと
だ。
①二人の関係性が生まれたストーリーを見い出すこと
出会った意味やストーリーを見つけられない男女は、いつか「なぜ一緒にいるのか?」がわからなくなってしまう。
よくよく考えてみてほしい。
この広い宇宙の中で、その場所でそのタイミングで出会って、惹かれ合って、一緒にいるんだ。
絶対に意味やストーリーがあるんだから、根気強く、あきらめずに、心から「そうだ」と思える意味が見つかるまで探そう。
意味のない出会いなんてない。
たとえば、「できちゃった結婚」をした方々。
合コンで出会ってお互い好きになって付き合って、何度目かのセックスで子どもができちゃった。
子どもができたから、「一緒に育てなきゃ」となった。
子どもを育てるなら、「結婚しなきゃ」となった。
そんな流れで生活をともにすることになった男女。
「できちゃった」→「育てなきゃ」→「結婚しなきゃ」→「だから一緒にいるんだ」それだけだ、と信じているのなら、大間違いだ。
そんなシンプルな話ではなく、あなたたち二人の関係性の成り立ちは、もっと複雑で不思議なものなのだ。
「そうか!そういうことだったか!」という意味を見つけるまで、どうか探し続けてほしい。
②二人の関係性が生まれたストーリーを相手に語ること
もし、二人の関係性が生まれた意味やストーリーを見つけることができたなら、まずはあなたが、相手に語ることが大事だ。
「自分たちはなぜ一緒にいるのか?」を確認し合うのだ。
あなたが真剣にそれを語るなら、そして相手が「わたしたち」のこれからのことを考えている人であれば、あなたにとって必要な反応を必ずしてくれる。
ここで、あなたにとって望まない反応をされたとしても、感情的になることはない。
あなたがあきらめずに探し求めて見い出した、あなたにとっての大切な意味に、もし真剣に向き合ってくれないのであれば、それはどういうことなのかよく考えればいい。
ストーリーを相手に語ることで、次の道が開けるハズだ。
③自分にウソをつかないこと
そして、これが一番大事なことだとぼくは思っている。
そもそも自分にウソをついて生きていると、ストーリーや意味を自分の都合のいいようにでっちあげ、それを自分に言い聞かせて、相手に語ることになる。
自己欺瞞だ。
これでは、関係性もクソもない。
二人の関係性をこの先も続けていくために一番大事なのは「自分にウソをついていないか?」を確認することだ。
自分自身に正直になり、ウソがないか確認してから、①と②をやればきっとうまくいく。
まとめ
好き合った男女が生活をともにし続けることは、大きなチャレンジであり、並大抵の努力では成し得ない。
でも、男女で生活をともにしながら二人で幸せになろうとする人たちには、あらゆる場面で良好な人間関係を築く力があると思う。
人は、人と関わり合いながら生きていく。
最小単位のチームにおける人間関係に真剣に向き合い、いい感じで過ごせるのであれば、生きていくうえで関わる人たち(友達・会社の同僚・家族など)との関係性もうまくいくはずだ。
協力して心地よい環境をつくったり保ったり、苦しいこと辛いことがあれば一緒に考えて解決したり、仕事をする喜びを分け合ったり、悲しみに共感したり、一緒に遊んで喜び合ったり。
それは「ひとり」と「ひとり」であった人間が時間と空間を重ねて生きていくということであり、「わたしたち」として生きていくってどういうことなんだ?という問いに、あらゆる場面で向き合っていくということ。
大きなテーマから小さなことまで、すべてを真剣に取り扱いながら、二人にとって居心地良い時間と空間をあきらめずにつくっていくのが生活をともにするということだ。
長い道のりだけど、男女が生活をともにすることを続けることが、幸せにつながっていくのだと思う。
それではー!