「うちの家族はそんなことはない」
「家族のことは他の誰よりもよく知っている」
「分かり合える素晴らしい家族です」
そうやって自信を持って熱く語っちゃう人ほど危ないのです。
思い込みを盲信しているあなたは「家族という病」にむしばまれている、と断言しましょう。
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ぼくたちは家族を選んで生まれてくることはできません。生まれた時代や育つ環境もまったく違うし、生まれもった才能や感覚も違う。夫婦なら「好きあった赤の他人」で、子どもなら「顔がクリソツで遺伝子が似ている他人」なわけですよ、言ってみれば。
ですが日本という国は、その家族の中にいるという事実だけで、血がつながっている事実だけで、世間の常識通りの、他に恥じない家族を演じなければならない苦しい社会な気がしてきます。
「特別な関係」が築かれていると思い込み、相手にとっても「特別な存在」でありたいと願います。あらゆるすべての困難も家族となら乗り越えられるし、そうしなければならないと信じて、そして病んでいきます。
近すぎる大切な存在によって、世界を閉じ、自分を閉じ、世間の望む形だけを取りつくろい、本当に手に入れたいものから遠ざかっていく、、、、
家族という集団が向かう先はどこなのか?本当に向かいたい場所はどこなのか?
下重暁子さんの家族という病という本を参考に、最近の自らの経験をまじえて書いてみます。
家族という「形」が幸せの象徴であると信じてやまない日本人
自分の生まれ持った感覚や育ってきた環境によって得た価値観を理解し合える関係というのは、血のつながりや芽生えた情や、同じ環境の中で住んでいるという事実によって紡げるものではないのに、「家族なら分かりあえる、信じる気持ちがあれば分かりあえる」と信じているのです。
(ぼくを含めた)多くの人は、「家族なんだからこうあるべきだ」というものを、あたかもそうなっているかのように「形」をとりつくろっているのです。本質的に大事なのは「形」ではなく中身であるハズなのに、あるべき同じ「形」を信じて押しつけあう、、、あー!書いてたら気持ち悪くなってきたー!笑
「形」を求めるのは、恐ろしい方向にむかっていく集団の心理のような気がします。
ついこの前も、「いじめゼロ」という「形」を追い求めた町が目標を達成したんだけど、実は隠蔽による偽装であったという話がありました。結果的にいじめをいじめとして認めなかったということ。
<参考記事>「いじめゼロ」「不登校ゼロ」の落とし穴――岩手県矢巾町立中学校の自死事案を手がかりに考える|yahooニュース
これが発展していくと、究極的には「お国のために死ねれば本望である」という形を盲信し、多くの人が大切な命を投げ出して戦った戦時中の日本国の状態になるのではないか、、、と思うと恐ろしくなります。
ちょっと話が大きくなりすぎましたが、「家族の信頼は厚いものである」「家族は一体であると信じて疑わない」、そして家族=自分自身であるという考え方が染み付いているから、振り込め詐欺とかオレオレ詐欺に引っ掛かったりする。
本書では、「子どもが困っている!わたしが救わねば!」と簡単に振り込め詐欺に引っ掛かる年配の婦人について、
子どもの危機はわが身の危機、それが成人した子供であっても自分がなんとかしなければと考える。うるわしい家族愛なのかもしれないが理性も深い考えもなく慌てふためき、行動に走ってしまう。家族と言う甘い意識の空間にはいくらでも犯罪が入り込んでくるのだ。
と書いています。
振り込め詐欺は、家族の危機は自分の危機、家族の恥は自分の恥、という日本人の家族の「形」をよく理解してデザインされた周到な犯罪。家族を盲信している人ほど、この手の犯罪に引っ掛かりやすいんだろうなと。
家族という「形」こそが幸せの象徴であるとなってしまうと、大事なものが見えなくなってしまうのです。
近すぎるがゆえに離れられなくて許せなくなるのが家族
多くの日本人が、血や名前がおなじであることにこだわり執着します。
自分の子どもだから、この人は家族だから、絶対に分かるはずだし、そうあるべきだと執着します。あの人が困っているなら、子供が困っているなら、自分が犠牲になることをためらいません。だって家族ですもんね。
そうして結果として得られるもの・得たいものは?
結局、自分を犠牲にして与えたものには、ほぼ大半の人たちが見返りを求めます。
ああしてあげたのに、こんなにも尽くしたのに、なんでこんなにがんばっているのにわかってくれないのか、と。
ぼくにも経験があります。
距離が近づきすぎて、奥さんのことがものすごく嫌いになりそうな時だってありました。
自分がやっていることを正当化するために、相手のやっていることにケチをつけておとしめようとしたこともあります。「ほらね!オレのほうががんばってるじゃん!」と笑。
そうなっちゃうともう無限地獄ですよ。お互いを縛りあって、制限しあって、結果的に不自由を選択するんです。
本当は、好きな人が楽しんでいることが一番嬉しいはずなのに、その人の楽しみをねたみ、奪おうとする。
なぜ家族なのに、家族だけを大事にしないのか?という歪んだ世界へと突入するのです。
近づきすぎた家族が、単一の「形」だけを追い求めると、その先には不幸しか待っていません。
愛と執着は紙一重なのだと、最近思いました。
ぼくは最近そのことに危機感を覚え、いま荒療治中です笑。
日本人特有の「家族エゴ」という病
本より引用します。
日本人かどうかにこだわり、同じ故郷の人かどうかで関心の持ち方が違う。自分の家族であるかどうかで悲しみや衝撃は大きく違ってくる。宗教にあまり重きを置かない人の多い日本人の場合、他人を自分の家族と同じように愛するといっても、なかなかそうはいかない。
それぞれが家族と言う殻の中に閉じこもって、小さな幸せを守ろうとする病にかかっているようだ。
「他人の不幸は蜜の味」というけれど、他人の家族と自分の家族を比べて幸福度を測る。他人との比較は、諸悪の根源なのだ。自分なりの価値基準がないから、キョロキョロあたりを見まわし、友人・知人と比較する。
自分達だけよければ他人はどうでもいいという家族エゴ、自分の住んでいる所さえよければという地域エゴ、自分の国さえよければという国家のエゴ、全て争いのもとになる。
家族エゴはどうして起きるのか、家族が個人である前に役割を演じているからではなかろうか。
これ、ぼくは当たり前のことだと思っていました。疑問にすら思わなかった。
たしかに自分たちさえ良ければいいと思っています。こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、東日本大震災のとき被災された方々を思うと心が痛んだのと同時に、「自分たちの近くで起きなくてよかった」と思った記憶があります。
「まず第一に家族のため」となるということは、なにを差し置いても家族を最優先するということです。
たとえ目の前に見ず知らずの誰かさんの手が、助けを求めて伸びていたとしても、家族のためには目の前の人は犠牲にしても仕方がないと言い訳をするということです。
家族も、自分自身もそうあるべきだと信じ、そうするはずだと期待をしています。
これは、個々が自立していれば、その信頼関係で問題なく乗り切れる状況かもしれないのに、過度の期待をしすぎていることで身動きがとれなく(とらなく)なってしまう状態です。
そしてこう言われるんでしょう。「なんで家族を真っ先に助けないのか?」と。
それを家族に、世間に言われるのが怖くて、また家族という小さな世界に閉じこもっていくのです。
「家族なんだから当たり前」と期待をしすぎて、依存をしすぎて生きているということ。
「家族のエゴ」というものは、もたれあい甘えあい、お互いの生きる覚悟を失わせていき、家族以外のものへの思いやりを失わせ、つながりを失わせていくモンスターであると思いました。
「家族という病」のたった2つの治療法
この病には荒療治的治療法が2つあります。
それは、まずはこれに気づいたあなたが、
1.自分の気持ちに素直になって行動すること
2.自分以外の個に絶対に期待しないこと
です。
1.自分の気持ちに素直になって行動すること
家族という「形」にこだわるのではなく、本当の家族とは何かを真剣に考えてみると、こうあるべきだと考えていたときには思いもしなかったような答えが頭の中に思い浮かんだんです。それは、
自分が自分でいられる場所を、家族の中でつくること。
というものでした。
自分自身がそうだったのでよくわかるんです。
まだ完全にそう出来ているわけではありませんが、取り繕い、ソツなくこなすことで家族という役割を演じるのではなく、臆することなく自分を開いて、人生を楽しんでみる。ここからここまでは家族と一緒だけど、ここからは違う自分の世界だというのをはっきりと伝える事です。
それで壊れてしまうのであれば、本当にそれは「形」だけのものです。
ぼくはそうではないことを信じて行動し始めました。
2.自分以外の個に絶対に期待しないこと
以下引用。
親や家族の期待は子供をスポイルしている。過度な期待などしてはいけない。血がつながっているとはいえ、違った一個の人格なのだ。個性を伸ばすためには、期待で、がんじがらめにしてはいけない。
つれあいや子供に期待する事も相手をしばることに他ならない。期待通りにならないと、落胆が激しく、愚痴や不満だらけになる。自分以外の個に期待してはならない。他の個への期待は落胆や愚痴と裏腹なのだ。
期待は自分にこそすべきものなのだ。自分にならいくら期待してもかまわない。うまくいかなくとも、自分のせいであり、自分に戻ってくる。だから次は別の方法で挑む。
この本に書いてある通りで、ぼくも奥さんや子供になにかと期待していたことがあり、それはただ単に自分のエゴを押しつけているだけであることを最近自覚しました。家族といえども、違った一個の人格であり、考え方ややり方が同じなはずはないのです。
他の個への期待の話は、家族だけではなく人間関係全般に言えることです。
近づきすぎれば近づきすぎるほど、冷静になって関係を見つめ直す必要がある。
まとめ
根底にあったのは「家族だから同じである」という期待です。
これこそが、本来持っていた本当の気持ちを覆い隠し、ねたみや執着を生み、家族全体を生きにくく不自由にさせるものの正体でした。
きっと多くの人が、ほとんど本能のレベルで、誰かの特別な存在でありたいと願い、同じ想いを共有したいと願っています。
でも特別な存在というのは、最初からあるものではなく、無理矢理つなぐものでもない。家族というのは、そういう過程をすっ飛ばして、「形」をつくることであたかもそうなったかのように感じてしまうところが厄介なのです。
何か事があったら相手を思いやり、助ける事が出来るのが家族。
本当の家族とは、血のつながった家族を超えたところに存在する。
ありのままの自分を安心してさらけ出すことのできる場所。
何も言わないでもわかる、自分の味方になってくれる人々がいる場所。
自分が自分でいられる場所。
それは人間同士の理解と信頼の上にしか成り立たない。
根底には、愛情がある。黙って自分を愛してくれるものが存在しない家族は、家族とは呼べない。
著者の下重さんは、難しい家族の中で育ったからひねくれてしまっただけなのかもしれないと思いましたが笑、読み切って思うのは完全に的を得た指摘であるということ。ぼくたちの中に、「本当の家族」というものについて考えたことがある人が、一体どれだけいるのだろうか?
当たり前すぎて考えもしないこと。
疑いようもない常識。
知らないうちに背負ってきた重い荷物を、少しずつ捨てながら自由になれ。
それではー!