朝さんぽをはじめて3ヶ月くらい経ちました。
毎朝、登校中の小学生と出会います。
こちとら古い道徳観を持った40過ぎのおじさんなので、「小学生とすれ違う時は必ず挨拶をしよう」と心に決めて散歩をしています。
挨拶をすると、挨拶を返してくれる子もいれば、こちらをチラッと見て挨拶を返さない子もいたり、あからさまに目をそらす子もいる。
逆に、向こうから挨拶をして、こちらがそれに返すというパターンもあります。
こういう話をすると、たいていの大人は「挨拶をする習慣はつけた方がいいよね、礼儀として」とか、「自分から挨拶をしてくるなんて、素晴らしいね」とか言います。
おそらくこれは、「挨拶はしなきゃイケナイ」という常識・思い込みからくる発言。
たぶん、挨拶の本質を捉えている人は「挨拶はしなきゃイケナイ」なんて言わないし、押し付けません。
本質を捉えていれば、相手が挨拶を返しても返さなくても、どっちでもいいハズなんです。
挨拶を返してくれないと心がキツくなる
かくいう私もいまだに修行中で。
挨拶しなくちゃ、という常識を持ってしまっているので、すれ違う小学生には挨拶をすると心に決めて散歩していました。
が、返してもらえないとキツいんですわ。心が。
無視されたんじゃないかと感じてしまうと、心が辛くなる。
人間は誰しもそうだと思いますが、相手が自分に対して無関心であるとか、自分の存在が認知されていないと感じてしまうと、心が辛くなるものです。
心がキツいから「挨拶をしなさい」と強要する
これは私の仮説ですが、そのキツさ・辛さを味わいたくない大人が、あるとき「挨拶をしなさい」「挨拶はするもの」「挨拶しなきゃイケナイ」という道徳観をつくり出したのです。
で、その正しさを水平展開しはじめた。
みんなそう思った方がいいよ、って。
お互い挨拶し合っている社会っていい社会だよね、って。
私も、小学生から挨拶が返ってこないときに、言葉にはしてないけど心の中で「なんで挨拶返さないんだよ」「挨拶はした方がいいよ」「親にどんな教育受けてるのかな」とか思ったことがあります。
心の中で、挨拶を押し付けていた。
そんな思いが、我慢できずに口から外の世界に飛び出してしまうことがあっても、「挨拶しなさい!」と言ってしまう人がいても、まったく不思議なことではありません。
「挨拶をしなさい」という道徳観を押し付ける大人の根底には、
- 無視されるとキツいんだよ
- 私が存在していることを認めてくれよ
という気持ちが流れているのではないでしょうか。
挨拶の本質とは
ここまで書いてきたことをポジティブに捉えなおすとわかりますが、挨拶とは、「その人が世界の中に存在している」ということを認める行為です。
ただそれだけのことなんだけど、でもものすごいチカラを持っています。
「私はあなたのこと確かに見えているし、存在していることをわかっています。」
というのが伝わることが、挨拶の本質。
「ああ、あなたは私と同じこの世界で生きているんだね。」という心の声が、思わず外の世界に飛び出てちゃった、って感じ。
そう考えたら、別に返してもらわなくてもいいし、返ってこなくても強要しようとも思わない。
ただ、「わたしはあなたの存在を認めている」ということを伝えたいだけなんだから。
挨拶はただ自分からするもの
これがわかってから、小学生とすれ違う時に挨拶が返ってこなくても心は辛くならなくなりました。
「なんで認めてくれないんだよ!」というネガティブな感情が治まってくる。
「挨拶しないなんてダメな子だ!」という間違った道徳観を押し付けなくなる。
逆に「この人は本当に自分の存在に気づいていないのかな?それとも恥ずかしいのかな?なんなんだろう?」とよく観察し、感じ取ろうとするようになりました。
挨拶は「しなきゃイケナイ」と押し付けるものではなく、「ただ自分からするもの」。
挨拶の本質を知って、毎日が気持ちよくなりました。
それでは、またー!