*****
「書く」ということは、自分を表現すること。
そして、自分の意識・意思を他人に伝え、自分を知ってもらうこと。
そんな思いから、2013年1月にブログをはじめた。
ふりかえってみると、他者に「自分はこういうことを考えているんだ!」ということをわかってほしい、承認してほしいという気持ちが強かった
そして、いつかから、書くことに意味を持たせはじめた。
- 書くものすべて、自分が書くものすべて他人の眼にふれないと意味がない
- 自分のためだけに書くということはもったいない、書く意味がない
- 書くことが稼ぐことにつながっていないと意味がない
なんて思いはじめていた。
でも、今少し、自分の中で、書くと言うことの意味が変わってきているように思う。
書くことに対する価値観が変わったキッカケ
キッカケはモーニングノートだった。
モーニングノートのルールは「書いたことを他人に見せてはいけない」
前の価値観からすると、「自分のためだけの文章は無価値、意味がない」だった。
これが、モーニングノートを始めて(なのか、他のことがあったからなのかはわからないけど)自分のためだけに書くことの気持ち良さ、他人の目を気にせずに書くことの気持よさを知った。
「他人に見せない」という前提で書くのは初めてで、他人にあわせた文章でなく、自分のなかの、誰の目も気にしない文章が出てくるのがいいなと思う。
相手がどう思うかを考えずに、書くことというのはいいことだなって思います。
ブログの投稿画面に向かって書き始めると、何度も何度も一行書いては止まり、直し、また次の一行書いてはとまりということをずっとやって、丸1日やっても書けないこともあったり、何時間ももんもんとしながらも書けなくて苦しいこともあったけど。
最近は気軽に書くというか、何か意味とか価値を求めるというよりかは「ただ書く」ということがなんとなくでき始めているというか。
「ただ書く」ということ。
それが気持ちいいなという感じがしている。
「ただ書く」ことの気持ちよさ
「全部でちゃう」
頭の中にあったものが、もやもやしているものがなくなる、そういう爽快感、すっきりする感じがある。
書いたあとはまたいろいろ考えてもやもやしたりはするけど、すっきりした感が一瞬でもあるというのが気持ちいい。
かたや、外に向けて書く、目的があって書くときは、
- この文章はわかりやすいのだろうか
- 相手がどう思うかとか
- 読まれるかどうか
がすごい気になっている。
自分という人間が受け入れられるのかを考えすぎてしまって、外向きの文章に関してはとりつくろっているというか。
うその自分とまではいわないけど、無理をしている自分が出ているのかもしれない。
だから苦しいのかもしれない。
最初に感じて言語化したことはあながち間違っていない
最初にブログを始めたときの、文章を書くと言うことに対する意味や意義というのはあながちまちがっていなかった。
それが人に向けて書くこととか、顔の知らない多くの人に向かって書くという行為によって、最初に思っていたことをできなくさせていた。
書くことを仕事にする葛藤
人に見せる必要はない、と思って書くことをする方が自分にとっては気持ちいい。
けど、書くということを仕事にしたい、書くというスキルを使って人の役に立ちたいという気持ちもある。
自分の経験や知識が、もしかしたら必要としている人に届けられることができれば誰かの役に立ったり、勇気につながったりすることもあるかもしれないと思う。
誰にも見せないで書くことが気持ちいいなと思う半面、誰かに届けたいという思いもある。
そういう、葛藤がある。
体験を他人事で書く
自分の経験だけを使って文章をまとめていくというか他人に伝わるように整えていくという作業は感覚的に少し苦しいイメージがある。
人が経験したことを自分の視点で編集してまとめていくということはそこまで苦しさを感じていない気もしている。
「あの報酬をもう一度味わいたい」という欲求に動かされている。
自分で書いたブログがたくさんの人に読まれたときのうれしさ、報酬体験があるから、また書きたい、またやりたいとなって、ここまで続けてきたのかなと思う。
それは、そうですね、うん。
ブログに書いたことがツイッターでシェアされてたくさんの人に読まれたときに、うれしくて。
そうすると単純なもので、これを仕事にしたいとか、書くことで食っていきたいと思ったりもして。
でもそれを仕事にするということにはそれなりの苦労というか大変さもあって。
仕事で書こうとすると会社の色とか方針とか社内にいる人たちの考えとか価値観とか、いろんな縛りとかルールがあって。
それにすべてマッチした文章を書いて、その上で目的を達成することのレベルの高さに参ることもあって。
仕事にしたいという思いみたいなのを、あきらめたくなる言い訳が出てきたりもする。
意味はあとからついてくる
今、ふと「結論を早く出そうとし過ぎる」という自分に気づいた。
これなんなんだろう。
昨日、近くの古本屋さんに行ったとき、お店のオーナーさんが絵本が好きで子どもの頃に読んでいた大好きな絵本を2冊くらい紹介してくれて読んでたんですよ。
なんとかの羽という、リスが集めていた鳥の羽があるときぜんぶなくなっちゃって…という話。
いい話ですねとオーナーに返したら、
「羽根がなくなっていたときのリスの顔最高じゃないですか!?」
と言われて。
でも、自分はまったくその絵に記憶がなかった。
文章ばっかり追っていて、絵本なのに絵をみていない。
もっとびっくりしたのが、オーナーさんは、リスが羽根を拡げている絵を見て「本当に70何枚あるかどうか数えた」と。
それが衝撃で、なんでそんなにゆったりしているんだろうと。
そこで自分は、物語を先に先に知りたい意味ばかりしろうとする、結論を早く知ろうとしていることに気づいたんです。
「もっとゆったりしてもいいんじゃないか」
もっと細部まで楽しんで深く深く意味を探究するという、そういう生き方っていいなって思いました。
言葉の意味を知らずに使っていた
最近、自分に言い聞かせようとしていることは、
「ひとつひとつ丁寧にやろう」
でも、ただ丁寧にやろうという言葉を使っていただけで、その言葉の本質的な意味というか
やりかたというか、そういうのをまったく理解せずに口が動いていただけだなと今わかった。
たぶん、ただ目のまえにあることを、すみずみまで楽しむということ。
人の作品を、その人が表現していることをすみずみまで見てみるとか、すみずみまで感じようとか、大切なのはそういうことなんじゃないかなとわかった。
ただゆっくりやればいいということでもない。
他人や社会に流されない生き方
会社の仕事でも急いでやらなきゃいけないことは出てきたりして、結果を出すスピードが遅いとどきどきしたりとか、ヘンな緊張をする、なんてことありませんか?
そうすればするほど、周りが見えなくなって空回りする。
「真ん中」を大切にする
自分には、プロセスの部分、「真ん中」の部分をすっとばして、すぐに目に見える結果を得ようとするくせがあるようだとわかってきた。
自分は、
- 結論をいそがない
- 行動するキッカケと目的のあいだにある「真ん中」を大切にする
そんな人で在りたい。
書くことにおいて、これからチャレンジすること
その中身をよく知ること。
この本が伝えたいこと、この人が伝えたいこと、この作品が言わんとしていること。
それは何なのか?
もっと時間をかけて、焦らずに探求に、より深く知ること。
そして、そこから出てきたものを、ただまとめればいいのだ。
自分の中から、言葉を絞り出さなくてもいいのだ。
だから自分の中で、物事が熟成されるのを待つ勇気を持とう。
目的のために、対象を隅々まで楽しみつくすことにチャレンジしよう。
「楽しむこと」とは、うれしいも、苦しいも、楽しいも、悲しいも、全力で味わうこと。
まとめ
どこかの作家さんが、
「50m先のタバコ屋へ行くのも冒険である」
と言ったそうだ。
なるほど。本当に、そうだ。
これから起こることが、楽しみで仕方がない。
*****
以上は、『「書く」をめぐるインタビューセッション』に参加したときに、大前さんが「メモ」してくれたことを編集したものです。
「書く」というテーマを飛び越えて自分自身のいまの課題に気づくに至った、不思議なセッションだった。
大前さんのインタビューを受けたら、いままで見えていなかった「自分」が言葉となって目の前に現れた。
モーニングノートのような人だ。
大前みどりさんのnoteはこちら
今回のセッションのことを素敵にまとめてくれました。
「書く」をめぐるインタビュー⑧~「目の前にあることをすみずみまで楽しむという、真ん中を大切にする生き方を」
自分のつたない言葉を、わたしのろくでもなくて素晴らしいこの人生や生き方すべてを、受け入れてもらったというか、自分自身が受け入れることができたような気がしました。
それでは、またー!