昨日、ウチの社長がいいこと言ってました。
「人は相手に貼られたレッテル通りに、信じてくれた通りに振る舞おうとするもの」
ちょっと前に、同じような話を新潟にあるフリースクール「寺子屋ありがとう」で聞いたことを思い出し、2人の話が心に沁みました。
【参考記事】【日々の記録】人を信じていないという人は、人を信じている人。
フリースクール「寺子屋ありがとう」について
寺子屋ありがとうに通い始めた多くの子どもは、希望を見出し、学び始めるようです。
何かしらの理由で学校に行くことができなくなった子どもや、手がつけられないくらいの暴れん坊だった子どもが、学ぶことの楽しさに気づき、また学校に行くようになったり、大学医学部に合格したり、生活に落ち着きを取り戻すことができる。
直接その現場を見たわけではないのですが、お話を直接聞いたり、記事を読んだりして、わかりました。
教室のゴールは解散。誰もこのような教室を必要としない世の中に。
【参考記事】悩むことができるのは解決できるから | 寺子屋ありがとう
そのために教室を運営しているという、なんとも複雑な気持ちになるゴール設定ですが、、、
苦しんでいる子どものための特別な場所が必要ない世の中になる・することを「ゴール」としています。
何のためにやっているのか明確になっていれば、いつでも自分の進んでいる方向が合っているか確認し、修正できますよね。
人は無意識に相手の期待に合わせて振る舞う
岸本さんは「悪いことをやっている子はいても、悪い子はいない」と信じている人です。
以前新潟に行ったとき、岸本さんはこの話と一緒に、今のぼくの身に染み入る絵本を紹介してくれました。
- 作者:あまん きみこ
- 出版社:サンリード
- 発売日: 1984-08-20
まだ購入していないのですが、
きつねは、ヒヨコたちを太らせて美味しくしてから食べようと思っていて、家に連れて帰りご飯を食べさせるのだけれど、ヒヨコたちは「きつねさんは神様のような人だ!」と、きつねを尊敬し、信じ、きつねはヒヨコたちがそんな話をしているのを目撃しました。
クライマックスでは、きつねは大きな動物に襲われたヒヨコたちを守るために戦う。
という話だと聞きました。
そして、岸本さんの書いているブログにこんなことが書いてあります。
人はどんな前提で自分を見るか。
その通りに振る舞ってしまいます。そして、自身に対する前提は周りの人からどのように見られているか。
そこで決まります。要は人はどのような前提で見られるかで善にも悪にもなる。
ならざるを得なくなる。
【参考記事】「信じる」とは、二度と疑念を抱かないことではなく | 寺子屋ありがとう
人は無意識にラクな方を選んでしまう
ぼくはおそらく無意識に、多くのことについて「ラクな方」を選んでしまっています。
そして、人から見られている通りに振る舞うのは「ラク」です。
「あなたの思う通りの自分ですよ」という態度は、相手にとっては気持ちがいい。
妬みや怒りを生まない、感情的な摩擦を起こらない。
相手の思う通りに振る舞うほうがラク。
だから本当の自分を傷つけてでも、自分の意見を殺してでも、相手のイメージや期待に合わせて「目の前にあるラク」を選択してしまいます。
でも、瞬間の心地よさは危険
たとえばレッドブルを飲んだとき、リポビタンDを飲んだとき。
瞬間、心地よくはなるけれど、血糖値が乱高下し、感情の起伏が激しくなりあとで必ず体がだるくなります。
たとえば、ハイな気分になれるヤツを服用したとき。
体がボロボロになり、それがないと生きていけないって思ってしまったりして、最悪の循環に入ってしまうようです。
それと同じで、「自分を傷つけてでも相手の期待に合わせる」という「目の前にあるラク」を無意識に選択し続けたら、心はきっとボロボロになる。
ぼくは、心がボロボロになる未来を思い描いて生きているわけではありません。
自分を傷つけず、相手の「神な部分」を感じて生きよう
これができる人は、自分も周囲の人も幸せにできる人だと思います。
まずは自分を大切にして、自然体で生きること。
相手を自分の価値観や勝手な期待で縛りつけない。
そして、勘違いでもなんでもいいから、相手の中にある「神な部分」を感じてみること。
現実は、「きつねのおきゃくさま」のような場所だと思います。
- 作者:あまん きみこ
- 出版社:サンリード
- 発売日: 1984-08-20
自然体で、人を信じて、心穏やかにいきましょう。
それではー!
日々の記録