「食事」とは、授かった体と脳のエネルギーを最大限に引き出し、限りある時間の中に命を濃縮するためにあるんじゃないかと思いはじめている大野です。
これまでのぼくの食習慣
いままでのぼくの食習慣はとても乱れていました。
食べ物は、ぼくの体と脳を欲望のままに動かすために存在していました。
お腹が空けば手軽で簡単に食べられるものを探し、コンビニでおにぎりや唐揚げや、パン、チョコクッキー、アイスクリームとかを買い、気持ちが落ち着くまで食べる。
牛丼、カップラーメン、お菓子……
「ぼくには時間がないんだ!」と、ファストフードを胃の中に放り込んで。
「いますぐ食べ物をよこせ!」と急かす、脳の本能の部分を満足させることに必死だった気がします。
でも、「これではいけない」「こんなに食べてはいけない」と我慢することもあって。
そして、我慢した分、イライラして、集中力や優しさを犠牲にしていました。
本能が欲する食べ物
体と脳を動かすために必要なエネルギーが、食べ物によって十分に補給されていたとしても。
目の前に美味しそうなケーキを見つければ、本能は「生き残るためには糖分がまだまだ必要だ!」と体に指令を出します。
極端な話、その食べ物を奪ってでも「自分の体の中に取り込みたい!」という衝動に駆られることだってある。
衝動を抑えるためにイライラを抑えるために、必要以上に食べることを繰り返すと、自分の体と脳の必要最小限なエネルギーの量がわからなくなってしまい、食事はさらに乱れていく。
そんな悪循環を、ぼくは繰り返してきました。
本能と理性(意志力)の闘い
「何が何でも生き残るんだ!」という本能のエネルギーはとてつもなく強力です。
実際は体も脳も十分なエネルギーを得ているのに、生きるために必要だと本能が感じたなら、それを抑えるにはより大きな「理性=意志力」が必要になる。
そのうえ、社会で生きているぼくたちは、日々日々仕事や人間関係で膨大な数の選択をしていて、それによって意志力を消耗しています。
「ダイエットしたい」という願いを実現するためにご飯の量や甘いケーキやクッキーを控えることにも、たくさんの意志力を消耗する。
理性=意志力は人間が持つ特別なエネルギーなのだけれど、本能を抑えたり、選択疲れを起こすと、その特別なエネルギーを消耗してしまうんです。
体と心が震える食事をする
体と心は、本当は「食事」を欲しています。
本能が欲する「手軽で簡単な食べ物を食べる」では満足しません。
人のことを思いやって、丁寧に選ばれた食材で、丁寧に料理された食べ物。
食材や料理してくれた人に感謝しながら食べる「食事」に、体と心は震えます。
心が「あぁ、いいなぁ」「美味しいなぁ」と感じる食事をすれば、体は喜び、いいエネルギーを受け取って、力がみなぎります。
逆に、たとえば人の気持ちがこもっていない食べ物、手軽で簡単な食べ物を「食べる」という行為では、その瞬間だけ本能は満たされるかもしれないけれど、体も心も実は全然喜んでいません。
体と心は、本能のようにとやかく言ったり暴れることはなく……
沈黙を守ったまま、静かに病んでいきます。
「食事」をしよう
最初の話に戻りますが、人間は限りある時間を生きていて、食事はその時間を大切に一生懸命に生きるためのツールだとぼくは思います。
ぼくもあなたも、いままで食べたものでできていて、これから食べるもので何度も何度も新しく生まれ変わっていく。
今日の体調も気分も思考も、すべて「食べる事」によってできているとぼくは思う。
食べる事=食事を大切にする人は、体調や気分の波に左右されず、時間が濃縮された豊かな人生を送ることができる。
逆に、食事を大切にしない人は、いつも体調や気分の波に足をすくわれ、自分を見失い、時間が分散された後悔の多い人生を送ることになると思う。
「食べる事=食事」を見直すタイミングが、目の前まで来ています。
それではー!