楽しむことに罪悪感を感じてしまう瞬間ってありませんか?
ぼくはたまにそんな自分がいるということに気づきました。
なんででしょうかね?
人生は楽しむためにあるんですから、本当は楽しいことを楽しめばいいだけなのに。
どうしてそんなことを思ってしまうのでしょうか?
これでは楽しく生きようとするたびに、「楽しむことは悪いこと」という声が頭の中に響いて邪魔をしてきます。この声をなんとかかき消さねば!
と、思っていたらそれを探るヒントがこの本の中にありました。
それではしがらみや常識を捨てるために、気づきの海にダイヴしましょう!
成功を恐れる人がいる
大きな家に住みたいと望んでいた婦人が、現実に大きな家に住めるようになってみると「うつ」になってしまう、という例がありました。どうやら成功を恐れている人は、確かに存在するようなのです。
これ、なんかわかるんですよね。
自分のことを例にあげると、基本的にぼくは地味に目立ちたがり屋なので、人には分からないように控えめに「人の目を惹くようなことをしたい!」「目立ちたい!」と思っています。
で、その地味に目立つためにやったことがあまりにもことがうまくいきすぎると、逆に「なんか申し訳ないな、、、」とか思っちゃって、急に控えめになることがあったりするんです。
楽しむことへの罪悪感その1:著者の体験
この本の著者である加藤さんは、よくよく考えてみるとまさに自分が「心の底で成功を恐れていた」と書いています。
成功して幸せになることに「罪悪感」を感じる自分がいた、と。
なにかいいことがあるとそれを妬むような人々の集まっているところで成長すれば、成功することを恐れる人が出てきても不思議ではないでしょう。ことにそれが親であればなおさらです。
成功すると見捨てられる、憎まれる、と感じて無意識に成功を避けてしまうということがあるのです。それでも、どうしても成功してしまうと、罪悪感を持ってしまうことだってあるのです。
私が、父親の自尊心とは関係のないところでなにかに喜んだ時、父親は明らかに面白くなかったようです。「父のおかげ」で何かをするのではなく、「父の恩恵」と関係なくなにかに喜んだりすると、父親は不快の念を露わにしました。私は幼い頃から、そんな父の不機嫌な顔に怯えていたのです。
それで私の心のなかには「自分が何か楽しい経験をすると、周囲の人に受け入れられない」というメッセージが日々送り込まれていったのです。わたしにとって楽しい経験は、いつしか脅威となりました。
むむむ、、、楽しむことへの罪悪感は子どもの頃の体験からきているということですね。
楽しむことへの罪悪感その2:自分の体験
自分の体験から思い出してみるのですが、ぼくの両親は子どもに愛情を持って接してくれていたと感じていますし、なにかことがうまくいったときは自分のことのように喜んでくれた人たちなので、親からの悪い影響はなさそうです。
ぼくが思い出せるのは、小学校の頃にいじめられた経験。
どうしてそういう対象になったのかははっきり覚えていませんが、その経験から「もう二度と他人から嫌われるのはイヤだ」と感じるようになった気がします。
嫌われないために、周囲の人たちに媚びていました。
その中で、「自分はあなたより成功していない」「自分はあなたより楽しんでいない」というふうに思うクセがついたのかもしれません。
あの頃の自分を思い返すと、なんとなくそんな気がします。
楽しむことへの罪悪感を感じている人の特徴
またまた本書より引用。
だから、心地よく他人と一緒にいることができません。他人といると気がひけてしまいます。
すると、相手に何かしてあげなければいられない気持ちになります。相手の得になるようなことをすることで、その居心地の悪さから逃れようとするのです。
さらには、損することでかえって気持ちが安定します。ところが損をしたという不快感は残ってしまいます。これではどうしたって他人と居心地よくいることはできません。
これもすごくよくわかる。
一緒にいる相手に対して、なにかしてあげなければいけない、せっかく一緒にいてくれてるんだからおもしろい話をしなきゃ申し訳ない、みたいな瞬間がぼくにもあるんです。
で、自分が損をしていると安心するんです。
相手より「下」だと、その瞬間気が楽だったりします。
でも、損をしているし楽しめてないので満たされない、というなんとも裏腹な行動と想い。
どうしたらいいんでしょうかねぇ…w
楽しむことに罪悪感を感じる人は、どんな行動をとるか?
憎しみを吐き出せずにおさえつけていると、それが嫉妬となって自分を攻撃する心配のない他人に向けて発散されます。本来向けるべきところに攻撃を向けることなく、いわれのない敵意を浴びる犠牲者が出るのです。
そしてここから子育て、親の話。
親にとっての「自分を攻撃する心配のない他人」が、子どもです。こうして親の嫉妬が、正義とか教養とか愛情とか、社会的に奨励される価値の仮面をかぶって子どもに向けられるのです。
衝撃!恐怖!
だれもそんなことを意識しながら子どもと接している親はいないはずです。
でも親は無意識に、あたかも純粋なふりをして正義とか教養とか愛情をふりかざして子どもに接する可能性があるということ。
振り返ってみると、ぼくも無意識に世の中が「正しい」「素晴らしい」としている常識を使って、子どもを操り、そしてまた自分がもたされたものと同じくらいの大きさの罪悪感を子どもたちにも背負わせようとしていた可能性が高い。
だいたい、愛情とかいってそれが本当にその子への愛情になっているのかは疑問です。
自分がしていることを、「これは愛情なのか?」と常に悩んでいる人はまだまともで、「愛情に決まっている」と信じて疑わない人ほど信じられない。本当のことは相手にしかわからないし、その人の「常識」や「思い込み」がそう思っているだけなんだから。
絶対なんてありえないワケです。
人生を楽しむための2つのステップ
ステップ1:過去と向き合え!
ここまで紹介してきたことに納得できる方は、まずは自分の過去と向き合う必要があります。
「どうして楽しむことに罪悪感を感じてしまうのか?」の答えは、ほぼ間違いなく過去の体験の中にある。
脳内に封じ込められた記憶を根気強く紐解き、それを捉え、認めたとき、罪悪感の理由はあなた自身の問題ではないことがわかります。
ステップ2:「自分を楽しませる」ことを優先しろ!
ステップ1で気持ちを軽くしたら、もう恐れることはありません!
だって、その罪悪感は自分には全く問題はなくて、ただの思い込み、気持ちの問題だったからなんですから。
だから、なによりもまず「自分が楽しいと思うこと」を素直に純粋に、子どもの頃に戻った気持ちで紙に書いて並べてみましょう。
そして、これまで他人に何かしなければならない、他人を楽しませなければならないと思ってやってきたことを自分自身にしてあげればよいのです。
そう、「自分を楽しませる」ことをなにより優先してしまえばいいんですわ!
もちろん、相手のあることであればすぐに叶わないことだってありますよね。
だから最初は、「自分だけで楽しめることで、自分を楽しませる」ということにしましょう。
まとめ
人として、親として、やはり生きている限りは人生を楽しみたいと思います。
楽しんではいけない理由などまったくないし、せっかく生きているんだから楽しいほうがいい。
その心が、子どもたちにもつながっていくはずです。
自分が楽しんでやったことで、誰かの楽しみや喜びが生まれる。
それがまた誰かの楽しみや喜びにつながって、回り回りまわって、自分や目の前の大切な人の笑顔につながる。
そんな循環が生まれたら、この世界はどんなに素晴らしいものになるんだろうか?
想像するとワクワクしませんか?
「なによりもまずあなたを楽しませることを優先しよう」
相手があれば、うまくいかないときもあるけれど、この気持ちだけは常に持ち続けて生きたいと思います。
思い込みを捨てて、自由になろう。
それでは、またー!
読んでくれた方からのコメント。
楽しむことに罪悪感を感じてしまうあなたに聞いて欲しい「人生を楽しむ」ために必要な2つのステップ。 https://t.co/KPioqdwjii via @@HagemaruA
やっぱり、何度読んでもこの考え素晴らしいと思う。子供も大人も楽しめば、いい循環出来る。— – (@yumi030790) 2016年10月29日