子どもができてから「発達障害」とか「学習障害」という言葉をよく耳にするようになった気がします。
人は、「常識」を使って理解できないことに名前をつけて、種類を分け、知ったような顔をして自分の領域は守れているかをはかり、安心しようとする生き物のようです。
かく言うぼくも、人のことを外見や言葉で簡単に判断したり、つけられた名前や種類で偏見を持つ腐った人間です。
そんな、人を傷つけたり自分も周囲も生きにくくしてしまうような偏見や常識を、少しずつ捨てていくために今生きているのかもしれません。
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この本は、からだ中にべっとりと塗られている「腐った常識」を少しずつ洗い落とすためのツールとなってくれます。これまでの無知な自分に本当に嫌気が指しますわ。これは子どもと接する人には絶対に知っておいて欲しいこと。
それでは、全部は書けないのでさわりだけ、簡単に書いていきます。
足りない分は是非本を読んでください!面白いので!
まず、発達障害とはなにか?
発達障害とは、発達障害者支援法には「自閉症、アスペルガー症候群その他の広汎性発達障害、学習障害、注意欠陥多動性障害その他これに類する脳機能の障害であってその症状が通常低年齢において発現するものとして政令で定めるもの」と定義されています。
これはぼくの感覚ですが、多くの人は「他人と比べてなにかが劣っている」「”普通”とは違う」と「この子は発達障害・学習生涯である」と考えるのではないかと思うんです。
その”普通”がとても厄介で、小学校でいうと「読み書き計算が、決められたステップ通りに上達しない」というだけで「”普通”からは劣る」というレッテルを貼られてしまう気がしていて。
でもコレって、そんな単純なことではないみたいなんですよ。
発達障害への誤解
以下、「天才と発達障害 映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル (こころライブラリー)」から引用です。
(自閉症や学習生涯の方々の診療をしているまえがきを書いた宮尾益知さんの言葉)私自身は、体で感じることも目で見ることも言葉の持つイメージに置き換えて記憶していく、耳から聞いた情報は言葉としてそれなりに解釈した上ですべて言葉に置き換えながら行動をしてきました。ですが診察する子どもたちは、感覚的に敏感で、視覚的な感性や記憶が強く、聴覚的には言語的認知が弱い子どもが多いことに気づいたのです。
そして、いわゆる発達障害とされる子どもたちの問題は、精神的なものではなく、神経的な認知のパターンが偏っているために、思考や行動に問題が表れてくるのだと考えるようになりました。
発達障害といわれている子どもが「なにか違う」のではなく、「勝手につくった”普通”という常識とは違う」というだけなのです。
人間は絶対に生まれもった認知の偏りがある
人間には五感がありますよね?視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚。
この感覚を駆使して、人間は目の前のものが何であるかを認知し理解しようとします。
で、上述されているようにその「認知」は、人によって偏りがあるのだそうです。なにかが強いとなにかが弱くなっている。
例えば、視覚優位な人は聴覚が弱かったり。なんだかうまくバランスを取っているようなんですね。
五感の中でその人がもっとも優れている感覚器からの情報により、目の前のものがなんであるかを知ることができるのです。1人の人の中には、優れた感覚器があれば、反対に弱い感覚器もあります。
本書によると、このような認知特徴の違いは脳の中の神経特徴の違いによるもので、生まれつきのもののようなんです。
認知の偏りが学習や人間関係に影響する
嗅覚についても想像してみましょう。
嗅覚の敏感な女性は、日ごろ無香料の化粧品を使うことを習慣とするようですが、問題は嗅覚が鈍麻している人と空間を共有することになった場合です。
嗅覚が鈍麻しているということは、臭いを感じないということです。それゆえ市販されている強い臭いの筋肉痛緩和のための薬品などを使った場合、嗅覚が敏感な人は家の中にいられずに、外へ一時非難することになります。
そういった認知感度がすれ違うと、感度の良い人のほうがストレスを感じることになります。
んーめちゃくちゃよくわかりますねぇ。
例えばぼくとぼくの奥さんとでは、認知がすれ違っているんだというのが理解できました。
ぼくはおそらく聴覚が弱いです。テレビの音を大きくしたがる。
でも奥さんはテレビの音にものすごく敏感で、テレビの音を小さくしたがるのです。
あと、ぼくは視覚を通じて入ってくる景色とかの情報に感動したりするんですが、奥さんはそうでもなさそうです。
日ごろ私たちは感覚が合う、合わないという言い方をします。同じ季節の移り変わりを、主に音により聴覚で感じる人と、主に目により視覚で感じる人とでは、実は感じ方が異なっているのです。
つまり、「気になる」あるいは「気にしている」ことが、優位性が違う人の場合では、異なるのです。
何らかの優れた部分がある人には、反対に、思いもよらない劣ったと思われる部分があります。嗅覚ならまだしも、これが聴覚の劣った人の場合では学習上の何らかの困難が生じ、また視覚の劣った人の場合では、人間関係を保つ上で、さまざまな問題を生じさせることがあります。
なんでわからないんだろう?どうしてわかってくれないんだろう?というようなことは、些細なことから大きなことまで、お互い相手との違いが理解できていないだけなのかもしれなかった、というのがわかってきました。
認知の違いこそ、その人らしさである
この本の中でクローズアップされているのは、スペインのサグラダファミリア聖堂を生み出したアントニオ・ガウディと不思議の国のアリスを生み出したルイス・キャロル。映像思考のガウディには聴覚の不全があり、聴覚優位のキャロルには視覚の不全が見られたそうです。
ほかにも、モーツァルト、エジソン、アインシュタイン、などの天才と言われる人たちは、発達障害として語られていたそう。
もちろん、感覚のバランスが取れている人もいるわけです。
ここからまた引用連発でいきます。
人との関わり方から、学習方法や趣味、そして職業、それらから生ずる幸福感にいたるまで、その様相を異にします。
時にはそれが価値観の違いを生み出してもいます。
人は見方によっては五体があり、ほぼ同じ形をしていますから、他人とは感じ方や考え方が同じであると思いたがるふしがあります。他の人との違いがそれとなく分かっていながら、それを認めたくない部分も実はあるのです。
みんなが同じだとすると、できない苦手な部分は「努力不足」や「怠けている」という評価になりますから、これはたいへんですが、すでに書いたようにこれはもともとの神経の特徴によるものですから、努力ではどうしようもないものです。
「みんな違って、みんないい」とよく言われますが、神経特徴から生ずる認知の違いは、この言葉の生物医学的な後ろ盾となるものです。
ということは一人ひとりが違っている、そして凹凸があることが自然であり、当たり前だということなのです。
人と違う偏りがあれば、違う観点から新たな発想を生み出し、違う表現ができるということです。
人と違うところにこそ、その人らしさがあるのです。
まとめ
子育ての観点から言えば、
認知の面から人の特性をとらえていくことは、発達障害といわれる人々の個人の能力をいかに伸ばし、どう開花させればよいのか、「障害から才能へ」と導く指針となる。
ということなのです。
学校教育のなかでは、字を読めることと人の話を聞くことから覚えることが求められ、それが”普通”とか”常識”によって定められた基準よりも上なのか下なのかで、子どもを判断してしまいがちです。
でもコレを読むと、「人と違う」「普通じゃない」「常識では考えられない」という無知な理由で分け、閉じ込めて育てるということは、その子の「天から恵まれた才能」を閉じ込めるということだと気づいてしまいます。
違いこそが才能であり、その人らしさ。
常識にとらわれず、自分や周りの人の大いなる可能性を引き出していくためのヒントがつまった本です。
特に子育て中のお父さんお母さんや、学校教育に従事している方々に読んで欲しい素晴らしい1冊!
自分の体にこびりついた「常識」という垢を少しずつはがしながら、自由になろう。
それではー!