大阪市桜宮高校の事件から、体罰と学校について考える。

 

大阪市の高校で起きてしまった悲しい事件。
色々なところで議論され、たくさんの意見に日々触れます。

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photo credit: alles-schlumpf via photopin cc

 

先日もラジオでお笑いコンビのダイノジがリスナーから意見を募って議論をしていました。

どこまでを体罰と呼び、どこからを暴力と呼ぶのか?
許される範囲や許されない範囲というものがあるのか?

体罰についての考え方は、その人のこれまでの経験や価値観による「モノの見方」でずいぶんと違ってきます。

 

この記事に、教育評論家の尾木直樹さん(尾木ママ)のコメントが書かれていました。

体罰顧問は土下座した…涙して擁護するOBもいる桜宮バスケ部顧問の「素顔」 (産経新聞) – Yahoo!ニュース

顧問に対して批判とともに広がる擁護の声。だが、教育評論家の尾木直樹氏は「体罰は法律違反。教育の場だけ認められるのはありえず、議論の余地がない」とした上で、「体罰をありがたがっている卒業生もいるようだが、それは、私は、人格をゆがめて卒業してしまっているのだと思う」と厳しい見方を示す。

 

 

体罰についての私の意見
批判もあるかもしれないけど、私の意見をここに記しておきたいと思います。

私も小学生の頃、注意力が散漫で先生に頭をゲンコツされたり、高学年になると(理由は忘れたが)ビンタをされた記憶も蘇る。

私はコレを体罰と呼び、体罰というものの認識はこの程度である。

でも、こんな軽いものでも、教育の現場で使われる体罰という行為は学校からストリートに出た途端にただの暴力になる。
教育者はこのことを肝に命じるべきであると私は思う。

体罰とは、教育をするため、その子の人生を良い方向に導くための手段であるからこそ、暴力ではなく「体罰」という特別な名前がつけられているのではないだろうか?体罰は暴力の隠れみのであってはならない。

教育者がそのことをわきまえているのであれば、私は体罰を使うことに反対はしない。

でもだからこそ思うのは、体罰が原因で人が亡くなるという事は絶対にあってはならないことだということ。
人を導くために使われる手段が、人の人生を終わらせることなど間違ってもあるはずがない。
どんな理由であれ、あってはならない。

体罰をするその手に愛情を込めれば、それは必ず子供に伝わるはず。
尾木ママは「人格を歪めてしまっている」と言ったが、体罰に感謝している、という意見があるのはまさしく先生のその手に愛情を感じたからなのではないかと思う。

人を導く手段はきっと無数にある。
その中で教育者として体罰という手段を選んだのなら、私は反対しない。

 

 

学校という場所
私たちは自分の子どもたちの教育の大部分を、学校という場所に委ねています。
その集団生活の中で、子どもたちは社会性や協調性を学んだり、他者から刺激を受けてやりたいことや楽しいと思うことを見つけるんだと思います。
良いことも、悪いことも起こります。

繰り返しますが、そんな諸々を含めて、私たちは自分の子どもたちの教育を学校という場所に委ねている。だからこそ、学校や先生方との信頼関係ってとても大切ですよね。

私はこれまで学校の教育方針や先生方の人柄について、まったくと言っていいほど無関心でした。
これによって我が子にもし、重大な何かが起きてしまうのであれば、それは誰のせいだとか何が悪いとか言っていてもなんにもならない。
ただただ後悔して何かを憎んで生きていくことはとっても辛いことだろうな、と想像します。

少なくとも学校のことや、先生方の人柄を積極的に知ろうとすることは必要だと感じました。
そういうコミュニケーションを取れるのであれば、皆が敬遠するPTAの仕事も悪くないかな、とも思いました。

 

子どもには子どもの身に辛いことが起きないよう、前向きな思考ができる習慣をつけさせること。
学校についても、当たり前のことを当たり前で終わらせず、関わり方についてちょっとだけ考えてみること。

そんなことから始めていこうと、心に決めました。

 

もしよかったら、皆さんの体罰や学校教育についてのご意見も聞かせてください!

それでは、また。


ABOUTこの記事をかいた人

東京都北区出身。 これまでの経験と読書遍歴を活かして、現在は動画制作・コミュニティー運営・速読読書会開催・YouTubeチャンネル運営・オンライン講座を通じて、人が自らの才能を発揮し自由に生きるためのサポートをしています。