4月を前に、私が勤めている会社を仲間が2人去った。
まあ、2人ともどこか遠くへ行ってしまうわけではないし、会いたくなればきっといつでも会えるので別れ自体はそんなに悲しくはない。
それでも、出会って、「仲間だ」と思えるようになって、別れるのだがらそれなりに思うことはある。
出会って、仲間だと思えること。
それこそ奇跡のようなタイミングとバランスなのだとつくづく思う。
だからきっと、この別れにも大きな意味があるのだと勝手に思っている。
今日はこの意味について考えてみようと思う。
出会いと別れ
人はたくさんの人と出会いながら生きていく。
自ら望む場合もあれば、望まない場合もある。望まなくても、たくさんの人と出会う。
ここで言っている「出会い」とは、もうほとんどすれ違いで一言交わす程度の「出会い」も含んでいる。
出会いは無数にあると言えるだろう。
そんな出会いの中には、「別れ」につながる出会いがほんの少しだけ存在する。
いや、厳密に言えば、人は必ず死ぬので、出会ったら必ず別れが待っているのだが、ここでは新しい人生をスタートするために、相手が自ら決めた「別れ」のことを言っている。
そしてここで言う「別れ」とは、今まで近くにいたのに離れて生活するようになった、というような単純なものではなく特別なモノである。
すれ違いで一言交わした程度の「出会い」が、特別な「別れ」になることがあるのだ。
なぜそんなことになるのか?そこにたどり着く条件は、大きすぎてとても言葉で説明しきれる気がしない。
みんなそれぞれ自分の人生を生きてきて、たまたまその場にたどり着いただけだとも言える。本当に偶然としか言いようがない。
「この仲間と出会うためにこうやって生きてきました。だから出会えたんです!」なんて出会いは無いだろうと私は思う。出会いや別れをコントロールできたら、神様だ。
年齢、生い立ち、タイミング、価値観、場所、性格、境遇。
たくさんの条件が重なり合っているはずだと思う。考え始めたら、なんで「別れ」につながるような「出会い」が発生したのか?なんて、もう説明できるはずがない。
「仲間」と感じる条件
だけど一つだけ思うのは、「別れ」を感じさせる「出会い」は、「お互いを同じくらい認め合える仲」になった時に起こるんじゃないかな、ということ。
持っている価値観は、似ている人もいるかもしれないけど、根本的には人それぞれ違うと思う。
生い立ちと境遇が違えば、感じることもみんな全く違うんだから、そんなの当たり前だと私は思う。
影響するのはその人の価値観ではない。その持っている価値観も含めて、お互いを認め合えるかどうかではないか?
「オレの足りない部分を持っている」
「私とは違う考え方ができる」
「今の自分にはできない生き方をしている」
こういう「尊敬」に近い感覚が、お互いちょうど同じくらいの大きさになったとき、通りすがりで交わした一言で始まった「出会い」を、特別な「別れ」と感じさせるのかもしれない。
どちらか一方的ではないのだ。思うことはそれぞれだけど、お互いが同じくらいの大きさで認め合っているかどうかなのだと、私は思う。
別れは「人生の分岐点」
環境を変える決心をして、新しいスタートをする仲間の成長はきっととてつもなく速い。
身体も、心も、環境も新しいのだから、同じ場所に留まっている人とは感じることが全く違うのだ。
人の考え方は刻々と変わる。それは成長によって見ている景色が変わっていくから。
同じくらい認め合えるためには、やはり同じくらい成長しないといけないのだと、切実に思う。
別れを、悲しいものにするかしないかは、本当は別れた後の問題なのだ。
まとめ
すべては自分のために吹いている風だと捉えると、「別れ」は自分にとても大きな意味のあるものだと気づかされる。
それでは、また!