例えば会社で働いていて、自分だけ仕事が早く終わったから残業しないで帰ろうとした時に、同じ部署の仲間が必死の形相で仕事をしている場合。早く帰れて嬉しいのに「なんか先帰ったら悪いかなぁ」とか思いませんか?
例えば飲み会があって、普段行けないようなお店でめちゃくちゃうまい料理を食べた時、家でもしかしたら質素なご飯を食べているかもしれない家族を思い出して、「なんか自分だけ悪いなぁ」とか思ったり。
例えばスポーツでも音楽でも勉強でも、自分が良い結果を残して嬉しい時に、仲の良い友達が失敗してショボンとしている場合。「私だけうまくいっていいのかな?」なんて思ったりとか。
そういう経験ってありませんか?
何かが心に引っ掛かって、素直な感情を表現できない時があります。
嬉しいことや楽しいことがあった時、本当は喜びたいのに、その気持ちを抑えてしまう。
その正体が「罪悪感」ってやつです。
photo credit: Winter day at Arpoador beach via photopin (license)
なぜ罪悪感を感じてしまうのか?
短く言えば他人の目や世間の目を気にしているのです。
あの人にどう思われるのか?世間からどんな目で見られるのか?自分がどう見られるのか不安で不安で、感情を抑えてしまう。喜びや楽しみだけではなく、怒りや悲しみも他人の目を気にして抑えています。
でもなぜ罪悪感を感じでしまうのでしょうか?全く気にせず我が道をいく人だって中にはいます。
どこから来たものなのか?それは子どもの頃の経験が大きく影響しているようだというのが「アメリカインディアンの教え (扶桑社文庫)」を読んでわかりました。
ここから引用させていただくと、
よくよく考えてみると、実は私自身がそうだったのです。心の底で成功を恐れていたのです。
そして何よりも、自分が幸せになることを恐れていました。成功したら幸せになることに私は、罪悪感すら持っていました。
「お父様のお蔭で」こんな素晴らしい体験をすることができました、などということについては父親は満足していたようです。しかし「お父様のお蔭」とは関係のないことで面白いと私が喜んでいると、父親は苦虫をかみつぶしたような渋面をつくったものです。
それで私の心の中には「自分が何か楽しい経験をすると、周囲の人に受け入れられない」というメッセージが日々送り込まれていったのです。私にとって楽しい経験は、いつしか脅威となりました。
むう、、、やばい。ぼくは子どもたちに、少なからず楽しむことに対する罪悪感を植えつけていることに気づきました。
成長する過程で、無意識の中に刻まれた傷は、大人になっても癒されない癒すことが難しいもの、ということ。
罪悪感は幸せにフタをするもの
罪悪感とは「楽しんではいけない」「喜んではいけない」というメッセージで、つまり「幸せな気持ちになってはいけない」というメッセージなのです。全人類が勇気を持って立ち向かわなければいけません!笑
ここで確認しておきたい最も重要なことは、罪悪感に引きずられて行動を決めるということは、喜びや幸せな気持ちにフタをしながら生きるということで、それを繰り返していると自分が何に喜びを感じるのか?幸せを感じるのか?わからなくなるということです。
「人間は幸せになるために生きている」という大前提をぼくは信じていますが、罪悪感を優先して生きるということは、極端な話「何のために生きているのか?」わからなくなるということです。
この問題は、「本当の仕事」を探すのに必要な人が持っている「純粋意欲」と通じる話です。詳しくは「本当の仕事 自分に嘘をつかない生き方・働き方」を読んでみてください。オススメです!
<参考記事>いつまで「生活するため」に生きますか?「本当の仕事」を探究してココロに潤いを取り戻そう。 | SimpleeeLife

- 作者:榎本 英剛
- 出版社:日本能率協会マネジメントセンター
- 発売日: 2014-12-19
凡人を脱したければ己の「罪悪感」に着目せよ
でも、罪悪感は無意識の中に植えつけられたもので、人間は無意識に支配されています。
「人を動かすのは、人の意識ではなく、無意識なのだ」という話を聞いたことがありますし、行動を変えるのには勇気がいりますよね。
そんな人の背中を押し素直に喜びや幸せを感じるための一歩を踏み出させてくれそうな言葉を発見しました。イケダハヤトさんのブログ。
凡人を脱したければ、己の「罪悪感」に着目せよ | まだ東京で消耗してるの?
以下は引用。
ぼくは自分が何かをする際に、「罪悪感」を抱いた瞬間、「これは面白い分岐がやってきた!」と軽く喜びます。
そして、ほとんどの場合、「罪悪」の道に足を踏み入れます。自分が傷つこうが、他人が多少傷つこうが、人生はそんなに変わりませんからね。どこまで行ってもぼくは凡人なので、ちょっと罪悪に触れるくらいで、ちょうどいいのです。
彼は罪悪感を無意識の中から意識の中に引きずり込む術を知っているようです。
罪悪感を意識的に楽しむ。素晴らしい習慣ですね。
ただ、こんな注意も添えていました。
ほとんどの人が罪悪感の奴隷になっている以上、己の罪悪感と向き合い、他の人と違う結論を下すことができる人は、自然と市場から「面白い人」と評価されることになります。
ただし、市場が評価する罪悪には臨界点があるのも確かです。市場と自分の罪悪感をギリギリまで攻め続けることが、クリエイターという仕事の本質です。ぼくがどこまで攻められるか、楽しみに見ていてください。
越えてはいけない境界線を見極める目は必要で、何でもかんでもやってしまうと痛い目にはあうよ、ということ。
まとめ
知らないうちに自分を失っていく人がたくさんいます。ぼくもそうですし、ぼくの周りにもたくさんいるように見えます。でもすべての人がその人にしかない個性を持っていて、その人にしかできない何かを持っていると信じています。
すり減ってしまった自分を取り戻し、本来の目的に向かって生きていくために、境界線を見極めながら「罪悪感を楽しんで越えてみる」という考え方はアリな気がします。
罪悪感を感じる方へと勇気を持ってジャンプしてみると、自分が何に抑圧を受けていて、本当の気持ちはどうだったのか、素直な自分に気づくことができるようになるハズ。練習しよ。
星の命と比べたら人間の命なんてまばたきレベルです。
何をそんなに恐れているのか?もっと自分を解放してみよう。恐れずに。
それではー!