例えばあなたが「やってみたい!」と思ったことがあるとする。
歩くとか、運動するとか、持っているお金で買うとか簡単にできることもあれば、いま持っているものを捨てなければできないこと、自分を変えなければできないこと、人生を変えるくらい大きなことで、一歩踏み出すことがためらわれることもある。
後者の場合はエネルギー量が大きくなるので、やりたいことが失敗したときのことやその影響力を想像し、やらない理由をなんとか発見してあきらめてしまうことが多い。
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“あきらめ”の仕組み
あきらめてしまう一番の原因は、他人の目を気にしていることにある。
失敗したときにだれかに笑われること、誰にも理解されずに孤独になることを恐れている。
自分自身が傷つくことを恐れて、一歩を踏み出すのをためらい、最後には自分の内側に潜んでいる素晴らしい感情の膨らみを無理矢理抑えこみ、世間的に”正当な言い訳”を振りかざして、傷つかなくてすむ道を選ぶ。
変化への不安に耐えきれず、今持っている不満を選び、誰かや何かにそれらを吐き出しながら生活するいつもの日常に戻っていく。
まずはその”選択”と”毒”を意識しよう!
ぼくたちはその”選択”を意識できていない。
心にたまっている”毒”の正体を知ろうともしない。
そして、誰かや何かのせいにして”毒”を吐き出しながら、心と体のバランスを表面的に取ろうとしている。
「みんなと同じ」になろうとすることで、必死に安心を求める。
その毒の正体は、自分が選択しているものが変化への不安ではなく、今持っている不満なのだと意識できたときに暴かれる。それは、傷つくことを恐れる変われない自分、本当の自分を表現できない自分への”不満”なのだ。
恐れを行動に変える方法
いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。
当たり前のことだけれど、すべての瞬間には終わりがある。いつか、傷つくことさえもできなくなる日が、必ず来る。「傷つく」とか「傷つかない」とか、そういうものがすべてどうでもよくなってしまう瞬間が、遅かれ早かれ、誰のもとにも必ず訪れる。
【CTS-札幌】生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が、必ず来る。-いばや通信
生きているのはいまだけで、いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。生きているということは「傷つくことが許されている」限定的な時間のことで、どのように生きるのかはその人の自由だ。わたしにとって、生きていることは「傷つく」ことに似ている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 4月 12
坂爪さんがいばや通信でこんなことを言っていて純粋に感動しました。そして、
はっきりとわかった、自分は、傷つきたいと思っている。傷つくことを通じて、生きていることを実感したいと思っている。もちろん怖い、自分は駄目になってしまうのかもしれないという不安もある。ただ、傷つくことを恐れて何も出来ない人間になってしまうことを、自分は何よりも恐れている。
— 坂爪圭吾 (@KeigoSakatsume) 2015, 7月 15
と。
多くを語る必要はない気がしますが、たとえばぼく自身のことを話すと、他人(特に自分の大切な人)に嫌われることが怖くて、自分が傷つくのが怖くて怖くて自分の感じているままを表現することができないときがあります。
「それはあなたが優しい証拠だよ」と言ってくれる人もいるけど、そんな自分に嫌悪を抱くときがたまにあるんです。
大げさかもしれませんが、人とは違った自分を表現できないということは、生きることを放棄しているような感覚を覚えるときがたまにあるんだけど、
いつか傷つくことさえもできなくなる日が必ず訪れる。
この言葉を思い出すと、自分を表現すること、傷つくことが少し怖くなくなるんです。
そして、
自分は、傷つきたいと思っている。傷つくことを通じて、生きていることを実感したいと思っている。
という言葉を見たとき、
「なんでもできるんじゃないか?」
と、心の奥に眠っている、静かに流れる熱い感情が外に流れ出てくるような不思議な感覚に一瞬包まれた気がしました。
まとめ
失敗をしてもいい、人と違ってもいい、傷ついてもいい。
いつか必ず、傷つくことさえできなくなるときがくるのに、傷つくことが怖くて自分がしたいようにできないなんてバカげている。
恐れる必要などないのだ。
臆することなく自分を表現して、自由になれ。
それではー!