ぼくはなぜ「すべて自分の課題」として受け止められないのか?考えてみました。
昨日の自分
毎日毎日、さまざまな出来事が起こります。
例えば、昨日は仕事がはかどり、夜の飲み会はとても楽しく過ごすことができて、心地よい日でした。
でもその帰り道、自転車こいで家に向かっていると、歩道は凍っていて何度も滑ってコケそうになり、「なんでこんな目に合わなきゃいけないんだ…」と思ってしまった。
楽しいことも悲しいことも、「得した!」と思うことも「損した…」と思うこともあります。
得した!とか楽しい!と思うことは、自分の結果として素直に受け止められますが、でも、損した…とか、悲しい…とかいうことは、「なぜこんなことになったのだろうか?」と自分の問題・課題ではないんじゃないかと勘違いしてしまいそうになる。
でも「すべて自分の課題」ですよね。
歩道が凍っているのをわかっていて、帰りの道や、帰る方法決めているのは自分だということを、忘れがちです。
すべて自分で選んだこと
何が起きたって、自分が選んだ道なんだから、受け止めるしかないでしょう。
でも、何かのせいにしたがる、自分のせいではないと言いたがるのは、自分の人生を放棄していることと一緒です。
「仕事で失敗したのはあの人がちゃんとやらないから」
「風邪を引いたのは誰々にうつされたから」
「試験でミスしたのは前の日あいつに付き合ったから」
「自転車で転んだのは雪かきがされていないから」
しょうがない、仕方がない、だって、、、
いろんな「言い訳」が出てくるときがありますが……
起こった困難はすべて、その仕事を選び、その人に近づくことを選び、その道や方法を選んだ「自分のもの」です。
まずは自分の力を信じることから
もしすべて、「自分の課題」として受け止めることができたなら。
その瞬間、自分の力を信じて、自分の人生を生きることができるかもしれない、と思いました。
起こることすべてを自分の課題として受け止められないのは、自分の人生のハンドルを他者にあけ渡して生きてきたからです。
自分の人生のハンドルを自分の手に取り戻そうと思います。
自分が責められているようで、苦しいこともあると思います。
周囲に誰もいなくなる感覚、孤独になっていく感覚が、恐ろしく感じるかもしれません。
自分の心の声を拠りどころにして生きていくことは、簡単なことではありませんが、でもそのためにいまこの瞬間からできるのは、起こっていることはすべて「自分の課題」であると受け止めることです。
まとめ
自分を犠牲にして生きるというのは、起こった出来事を自分以外の何かのせいにして、自分をすり減らすということです。
ぼくはこれ以上、自分を犠牲にして生きていきたくはないので、起こっていることはすべて自分の課題であると受け止めることから始めたいと思います。
昨日食べた「勝福」の餃子、最高に美味しかった!
参考記事:登美ちゃんが、ゆく!: ぎょうざ食べにゆく! 上田市 勝福 ④
それではー!