以前、家族内で大げんかをした時、なんでそんな話になったか分からないんだけど「家なんかもういらねえよ!」とわたしがキレて大騒ぎになったことがあります。きっとわずらわしいものはすべて捨てたくなったのでしょう。なんて自分勝手な人間なんだ!笑
そのとき子どもたちと、「何で家が必要だと思うの?」と話し合ったところ、
・みんなで一緒に暮らしたいから
・台風が来たときに雨風をしのげるから
・一秒間に1000個のひょうが降ってきても家があれば大丈夫だから
・遊ぶものがなくなっちゃうから
・キッチンとお風呂が必要だから
・みんなの心と命を守りたいから
との意見が出てきました。
素晴らしくおもしろい!
極論すれば、家(この場合の家とは一軒家のこと)なんてなくても全然生きていけます。お金を掛けずに住めるところは、探せばきっとみつかる。でも、家があることが「当たり前」になると、失うことが怖くなる。執着すれば恐れが増えて、だんだん身動きが取れなくなっていくのではないかと思います。
家を持たないということ
家を持たない生活を実験している坂爪圭吾さんという人のこのブログの中に、
【FKS-東京】我輩は「地球のひきこもり」である。ー 何もかも失ったとしても、よろこびに触れる余地は大量に残されているのだから、恐れることなど何もない。 – いばや通信
あるアメリカ人のバックパッカーの言葉が紹介されています。
「私の好きな哲学者は『旅をする人は不幸なんだ』と言っている。旅をせず、自分が暮らしている場所に根を張って、そこに生活を築けた人こそが幸福であり、私のように旅を続けている人間は、何処にも根を張ることができない。多くの人達は旅人を見て羨ましがるけれど、旅をするひとは不幸なんです」
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衣食住が安定した生活は、人間が本能的に求めるもの。
その安定が基礎にあってはじめて次のステップにいける。
でも、衣食住の安定を常に意識して感謝しながら生きている場合と、それがただ目の前に当たり前のように存在していた場合では、たった今その瞬間に「生きている」ということの深みはまるで異なる。
当たり前になると、感覚は衰え、何かに依存していることも忘れ、やがて「生きている=息をしている」という方向に閉じていってしまう。
アメリカ人バックパッカーや坂爪さんは家を持たずに居場所を転々としながら生きている。
それは、「生きている」ということを実感する行為であり、「本当に生きる」ことの実践なのだと思う。
本当に家が必要なのか?
この問いは、安定した生活のためにどうにかして手に入れたいという本能を満たしたあと、それがやがて目の前にただ当たり前のものとして存在するようになったときに、思い返す必要があります。
自分を開いて生きていくことは、当たり前をなくしていく安心の少ないとても大変な生き方かもしれないけれど、感覚は研ぎ澄まされ、ほんのわずかな安心にも、深みがでるのかもしれませんね。
形あるすべてのものは変化し移ろっていくことを考えると、目の前にある当たり前に寄りかかって生きることのリスクを感じる今日この頃。どんなに周囲が変化しても変わらない「何か」を自分の中に持ち続けるためには、「当たり前」と「安心・安定」を棲み分けて受け入れる研ぎ澄まされた感覚が必要だ。
それではー!