【子育て】小学校という小さな閉じた世界で「異質」であることの尊さ

 
小学校という場所は、子ども達にとって「小さな閉じた世界」になってしまう可能性が高いところです。
 
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photo credit: strollerdos via photopin cc

 

 

家の近くにあって、勉強を教える先生が偉くて、友達を作って遊び、チャイムによって生活の時間を決められる。子どもにとっては学校がはじめての社会であり、社会の中で協調して生きていくこととは、「みんなと同じ」であることだと学び、自分の価値とは勉強や運動が周りの人よりできることであると学ぶ。それが習慣となっていく。

 

ちょっと偏った意見かもしれませんが、小学校に通う我が子と、自分が経験した小学校生活を重ねて考えてみると、そこは「それが社会そのものである」ような錯覚をしてしまう「小さな閉じた世界」になり得ます。世界は学校だけではなく、その外に果てしなく広がっているというのに。

 

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その小さな閉じた世界の中で、他人の顔色を伺いながら、他人と「同質」であることを確認しながら生きていく。この世界がすべてだとなると、とても苦しいなと最近強く思います。

 

あの人はどう思うだろうとか、誰かより良いとか悪いとか、競争をして誰かに勝つ負ける、、、他者より優位に立つことで優越感を持ち、それを維持することにのめり込んでしまう。敗者になって劣等感を感じないように、他人の評価を気にして他人の価値観の中で生きること。
 
それでは、じゃあ一体なんのために自分は生きているのか?と考えさせられますね。

 

 

ウチの長男は今(2014年時点)小学校4年生なのですが、奥さんが見ている感じだと、(周りの子と比べれば)うまく小学校に馴染めていない感じのようです。

 

それは子どもにとっても親にとってもすごく不安なことなのかもですが、よく考えると実はそれってとても喜ばしいことで、尊い感覚なのではないかと思うわけです。

 

学校に違和感を持つこと。
学校の中でうまく馴染めなくて人と違うことをすること。
無理して同質化せずに「異質」であることを認識し、苦しくても人と違う道を歩くこと。
これらの行動はとても尊いものだと私は思います。

 

私が子ども時代にはそんなこと怖くてできませんでした。思い出せば人と一緒でなければ怖かった気がします。不安と闘う勇気がなかった、ということです。

 

ユダヤ教の教えにこんな言葉があるそうです。

 

自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか。

 

と、この本に書いてありました。
 

 

他人の評価・モノサシ・価値観から解放され、自分らしく生きること。
他人のためではなく、まずは自分のために生きることが、自由になるための第一歩。

 

人と違ってもいいから、あるがままの自分を受け入れて生きていける強さを養うためにはどうしたらいいか?について子どもと一緒に考えながら成長していけたらいいなと思います。

 

あなたの人生の文字盤が見つかることを願っています。
それでは!
 

ABOUTこの記事をかいた人

東京都北区出身。 これまでの経験と読書遍歴を活かして、現在は動画制作・コミュニティー運営・速読読書会開催・YouTubeチャンネル運営・オンライン講座を通じて、人が自らの才能を発揮し自由に生きるためのサポートをしています。