「あいつ、なんか頼りないんだよなぁ…」
「彼と彼女はこの先うまくやっていけるのかね?」
「あの子、本当に大丈夫かな?」
落ち着いてよく考えてみれば、その人の「心配」をしてもどうしようもないことがわかります。
その人の人生を代わりに生きることはできませんし、何があっても責任は持てません。
でも、心配をしたがる人は、あることでもないことでもいいから、心配できる要素を見つけ出し、心配をしたがります。
思うに……
人の心配ばかりする人は、人の力を信じていない人であり、
人を信じられない人は、自分の力をまだ信じられていない人、ではないでしょうか。
「心配してるよ」とアピールしたいだけ
誤解を恐れずに書いていきます。
人の心配ばかりしている人って、「あなたを心配しているよ」というのを相手に伝えることで、相手から必要とされている自分を作り出し、自らを「重要人物」にしたいだけなんじゃないかと思うんです。
ほら、たとえば「オレは〇〇さんの秘密を知っているんだよ」とか「私にしか知らない情報があるんだ」とか「ぼくはあの偉い人とツーカーだから」みたいなことアピールして、自分の重要度を高めて優越感に浸ろうとする人、いますよね。
これは「自分は重要人物なんだ」と世に知らしめたい欲求が、そういう形で出てしまっているという例。
というか誰もが「自分は誰かにとっての重要人物である」ことを確認したいと思っているもの。
それと同じことで、本人に「あなたのことを心配しているよ」とアピールする人は、必要とされている自分、重要人物だと思われたい自分を確認したい人なんじゃないかと思うわけです。
子どもの心配をする親は、子どもの成長を恐れている
たとえば「お前のことを心配して言っているんだ!」って言う親。
多くの場合、自分を超えていこうとする子どもを恐れている表れかと。
自分を超えた力を発揮しようとしている子どもを見て、親は「自分はもうすぐ必要なくなるかもしれない」と感じます。
子どもは成長すればひとりで生きて行くことができる。
親だって本当は自分が必要なくなることを望んでいるはずなのに、自分が「重要人物ではなくなる」ことは怖いのです。
心配は人の持っている力を奪う
自分の心配をしてくれる人に対して「あぁ優しい人だな」と思うし、「自分のことを大切に思ってくれているんだ」と思いますよね。
でも、人の心配ばかりしている人って、人の力を奪っているかもしれません。
優しい人でもなければ、自分のことを大切に思っている人でもない、かもしれません。
人は本来、どんな困難も乗り越えられる力を持っているのに。
心配ばかりされていたら「自分にはやっぱりできないのかも…」「乗り越える力がないんじゃないか…」「私は弱いんだ」なんて思ってしまうことだってありますよね。
そんな種類の心配は、生まれながらに「困難を乗り越えようとする力」を持っている相手に失礼だと思います。
人の心配ばかりしている人は、人の力を信じていない
だから、人の心配ばかりしている人は「人の持っている力を信じていない人」だと思います。
そして、人の心配ばかりしている人は、心配していることを相手に伝えることに必死で「自分の人生を懸命に生きていない人」なんじゃないかとも思えてきます。
人の力を信じていない人は、自分の力を信じていない人
さらに踏み込んで言うと、人の心配ばかりする人は「自分の持っている力をまだ信じられていない人」であるとも思うわけです。
自分のやりたいこと・やるべきこと・得意なことに集中できている人は、自分のやっていることを信じ、自分の力を最大限発揮して結果を出すことで、誰かの重要人物になることができます。
自分の人生に集中することで、同時に欲求が満たされていくワケです。
でも、自分の持っている力をまだ信じられていない人は、自分の人生=時間に隙間がある。
自分の人生に集中できていない時間を、人の心配に費やすことで、欲求を満たそうとしている人なのかもしれません。
心配してても仕方がない
自分は、自分にできることをがんばる。
人のことは、心配していても仕方がない。何も変わらないんだから。
自分ができることをがんばった結果、誰かが助かったり喜んでくれるのなら、それはそれでうれしい。
そんな風に、人の力を信じて、自分の力を信じて、自分の人生に集中している人は、生産性がとても高い人です。
まとめ
余計な心配してても仕方がない。
とにかくいまは、人を信じて、自分の力を信じて一生懸命やろう。
そうやって毎日を過ごすことができたら、いい人生が送れる気がします。
それではー!