「結婚とは我慢である」
結婚している人からよく聞く言葉です。
実際ぼくも、友達と飲みに行ったり遊びに行きたくてもなるべくいかないようにしていたし、遊びに行って楽しい時間を過ごしても、「怒られるから早く帰らなきゃ…」とか、「自分だけ楽しんでいたら家族に悪いよなぁ…」とか思っていたタイプの人間でした。
結婚とは我慢のことであると思っていました。
夫として、父親として、自分のことを我慢をするのが当たり前だと思ってやってきましたし、「結婚生活を続けるためには我慢が必要だと思う」と大学の友達も言っていたし、世の中的にも正しい考えなのではないかと思うのですが、あなたはどう思いますか?
我慢の理由
その我慢は誰のための何のためのものなのか?はとても重要な話です。
ぼくの例でちょっと考えてみましょう。
ぼくの場合、家族のこと、仕事のこと、人間関係のことで「我慢」していたことは、自分で考え自分で必要だと決めてしていたものではなく、近しい人の感情に自分の行動を合わせようとする我慢が多かったんです。
たまには友達とお酒でも飲みに行って楽しみたいけど、あの人の機嫌が悪くなるから我慢するか…
上司に言われたこの仕事、やる意味がない気がするからまったくやる気にならないけど、期日までに終わらせないと上司に怒られるから我慢してやるか…
この人に話を合わせて楽しそうにしないと、嫌われるかもしれないから我慢して話を合わせるか…
振り返ってみると、我慢の理由は「目の前の人の感情を荒立てるくらいなら自分が犠牲になればいい」ということがほとんどでした。
その場をしのぎたくて、我慢していたのです。
体と心をむしばむ我慢という感情
自分を犠牲にするとだんだん疲れてきます。
ぼく自身、「自分はあの人のためにこんなに我慢しているのに、なんで知らないような顔をしているのだろう…」とか、「なぜ自分ばかり我慢しなきゃいけないのか…」と思うことがありました。
人のために我慢を繰り返すと、見返りを求めたり、誰かに認めてもらいたい欲求が現れてきます。
でもそれは、自分が思う通りに返ってはこないもの。
相手の気持ちは、自分ではコントロールできません。
そうして自分で自分を犠牲にする我慢は、自分でも気づかないうちに蓄積され、体と心をむしばみます。
その場しのぎの我慢をやめる
人のためのその場しのぎの我慢をしてきたぼくは、疲れ切って何もかも嫌になり、人のことを信じることができない人間になっていました。
心は疲れ、体も思うように動かない、そんな時期があったのです。
これはあかん…と思い、目の前の人の感情をしずめようとするその場しのぎの我慢をやめて、素直な自分、そのままの自分を大切にすることからはじめようと思い立ち、行動をはじめたのです。
不器用なもので笑、思い切って会社を辞めたり、人間関係を断ち切ったりしました。
でもそうしたら、人の感情に振り回されず、自分の人生に集中できるようになってきています。
自分のために我慢をし、自分のためにすることが人のためになればいいなと思えるようになり、素直なそのままの自分でいられるようになってきました。
まとめ
「結婚したらこうでなければならない」
「夫とは妻とは親とはこうあるべき」
世の中的な正しさにとらわれてしまうと、我慢は「正しさ」のためにするものになります。
結婚も子育ても、本来は自分が幸せになるためにするもの。
我慢が必要だと思うなら、その我慢は自分が望む未来を得るためにするものです。
目の前の人の感情を、その場しのぎで静めるためのものでも、誰かが決めた正しさを成立させるためにするものでもありません。
すべては、そのままの自分でいるためにするものだと思います。