敷かれたレールの上を走ってきたあなたが知っておくべき、自分の人生を「他人事」で生きることの罪。

 
ドーモドーモ、オーノです。

 

いやーこの歳(2015年現在、35歳)になると時間が経つのが本当に速い。
年が明けたと思ったらもう4月。で、あっ!という間に12月になるんでしょうね。
皆さんはいかがお過ごしでしょうか?

 

サラリーマンをやっていると、「どちらを選んだ方がエネルギーを消費しないで済むかな?」と、目の前の選択肢に迷うことってありませんか?
 
例えば、、、
とにかくルールは絶対!という価値観に縛られていると、目的と手段がごちゃごちゃになって本質を見失ってしまったどんなにくだらないと思えるルールでも、必ず「ルールの番人」が監視をしていて厳しく取り締まられてしまいます。
 
それを断固として「ルールがおかしい!」と闘うのか?それとも諦めて自分を捨ててルールに従うのか?という話。
 
「ルールは大事だよな」という価値観が先行し、その中身に思考を回さずに従順に従う、「こんなルールおかしい!」とか思いつつも「しょうがない」という言葉を使って思考停止する。

 

大抵は長いものにまかれ、大きなものに従うことが正しい道と信じて、脳みそを止めてしまうのです。
そんな自分に疑問を感じてしまう瞬間が最近結構あるんです。「本当にこれでいいのか?オレ!」と。

 

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わき上がる怒りを表現しないという選択

 
人は誰でも、自分にしかできない何かを成し遂げるために生まれてきています。
そのはずなのに、自分にしかできない何かを探す間もなく、誰かが用意したレールに乗せられ、車窓から覗く景色を落ち着いて眺める暇もないほどのスピードで一直線に道を進み、気がついたらなんか今ここにいました!というわたしのような人が結構いるんじゃないかと思います。
 
目を逸らしているのか、本当にわからないだけなのか、、、
自分に気づくこと自体がむずかしいのですが、他人に人生を明け渡すことになんの疑問もなくなってしまうかしまわないかの境界線があるハズです。
 
何気なくやっているその行為は、自分の人生を「まあいいか」という軽い感じで他人に委ねてしまっているということ。
嫌だけど、納得してないけど、わき上がる怒りを表現せずに言う通りに動く方を取るということは、自分の人生を他人に明け渡しているということです。

 

 

境界線を見極める

 
人によって気づく時期が違うのかもしれませんが、わたしの場合、なんだか今そのちょうど境目にいる気がしています。自分の人生を、他人事で生きている瞬間が増えているな、と気づいています。
 
さあ、その境界線に気づいたあと、わたしやあなたは一体どういう行動を取るのか?

 

わがままな自分の人生を生きることがどうしても選択できないのなら、その枠の中で楽しく幸せになるために懸命に生きる覚悟をしなければなりません。
 
そんな自分が嫌だと感じ、自分自身を表現しながら生きたい!と思えば、今持っているものをかなぐり捨てて前に進む覚悟をしなければなりません。

 

どちらにしても自分の人生を自分自身の手に取り戻すためには、自分にしかできない何かを成し遂げる「覚悟」が必要になってきます。

 

 

まとめ

 
自分の人生に責任を持てるのは自分しかいません。
 
わたしやあなたの人生に無責任でいられる他人の価値観の中で生きること・他人の言葉に振り回されて生きることは、自分の人生と向き合わずに自分にしかできないことを放棄して生きるということです。
 
せっかく先祖から受け継いできた命、親からもらった命、自分にしか歩めない人生なのに、うまくいかないことを自分以外の人やモノの責任にしながら生きることほど、罪なことはないなと。

 

 

「あなたには責任がある」という他人の言葉は、なんて無責任な言葉なんだろうと最近気づきました。
そんなこと気にしてないで、自分の人生を自分事で生きよう。

 

 

あなたの人生の文字盤が見つかることを願っています。
それでは!

 

ABOUTこの記事をかいた人

1980.1.1 東京生まれ YouTubeチャンネル『シンプリィライフ』では、本を参考にしながら無意識の思い込みから自由になる方法をアニメーションで解説しています。本業は古本買取サービス「バリューブックス」のSEOマーケティング担当。