「フルーツを楽しむ」をいままでしていなかった。
夏には夏の、秋には秋の、フルーツがある。
これまで、フルーツを自分から買おうとしなかった。
バナナとみかん以外は。
いま一緒に住んでいる相方は大のフルーツ好きで、美味しそうなフルーツを見つけては買ってきてくれる。
食べるととても美味しいのだが、自分は「皮を剥く」とか「種を取る」という行為を面倒に感じてしまい、「そんなことをするくらいなら食べなくていいや」と思ってしまうタイプの人間なのだ。
だから、シャインマスカットとか好きだ。

皮ごと食べられて、種がないから。
カニとかもそうだ。
食べれば本当に美味しいと感じる。
だけど、あの甲羅のなかから一生懸命に身をほじくり出して、やっとの思いで取り出したわずかな身を食べるのは、なんだか労力と体験が見合っていないんじゃないのか?と思ってしまうタイプの人間だ。
目に見えないからって「ない」ことにしないで
いやいや、そういうことじゃないだろう、と。
種あり巨峰が、どれだけの時間、どれだけ力強く生き、どれだけの人の手間ひまをかけて育ってきたのか。
カニがどこでどうやって生き、どうしてここにたどり着いたのか。
それらの過程を想像できていないだろう。
想像力をまったく働かせず、ただ美味しいか、面倒くさいかどうか、だけを見ていた。
目に見える範囲の、自分が知っている範囲の、事実しかわかろうとしていない。
もっと奥深くまで、広範囲にわたって、感じたいなぁ。
作品とのやりとり
『13歳からのアート思考』という本の中に、千利休と豊臣秀吉の朝顔についてエピソードが面白かった。
利休の庭には、朝顔が見事に咲き誇っていました。あるとき、その評判を当時の天下人である豊臣秀吉が聞きつけ、「見せてもらおうではないか」ということになりました。
(中略)
利休は当日の朝、なんと庭の朝顔の花をすべて摘み取ってしまったのです。庭を訪れた秀吉は「いったいどういうことだ?」と状況が飲み込めません。
不思議に思ったまま茶室に入ると、そこには、「一輪の朝顔」が生けられていました。
『13歳からのアート思考 P174~』
本書では、
「作品とのやりとり」という視点を入れるなら…
と、常にこちら側に問いかけてくる。
フルーツに対する主観的で表面的な思考から脱し、「背後にある目に見えない部分を想像し、一緒に作品をつくりあげていく」という思考へとシフトした。
まとめ
たかがフルーツと思うかもしれないが、日常のすべてが自分の生き方や姿勢を形にしていく訓練になっている。
もう少しゆっくり、目の前にあるモノゴトの、目に見えない部分を想像したり、味わったり、匂ったり、声を聴いてみたりしよう。
ゆっくり、動いてみよう。
それでは、また。