大人の言いなりになっている子どもたちに伝えたい、学校の勉強よりも大切なモノ。

 
学校は社会性を身に付ける場所であり、多くのモノゴトから子どもたちが興味が向くものを見い出す、という意味では非常に重要な役割を果たしてくれています。だけど、子どもがもらってくる宿題を見ていると勉強に関しては疑問が湧いてきます。
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計算や漢字の必要性

 
例えば計算ドリル。これ、ウチの息子はめちゃくちゃイヤイヤやっています笑。
たしかに昔は自分で計算ができる力というのは必要だったかもしれません。
電卓やコンピューターがなかった時代は頼るものがなかった。
 
でもいまはどうですかね?
計算は、手軽にいつでも持ち運べる手のひらサイズの情報端末ですぐに簡単に正確にすることができます。極端なことを言えば計算を自分でする必要はほとんどありません。

 

例えば漢字の書き取り。
何度も何度も繰り返し書いて覚える漢字。ウチの息子はただ書けばいいと思って読めないような字で言われた回数書きまくっています笑。
 
でもいまは?
平和な中流階級の日本人にとっては、インターネットや音声認識ツール、さらには翻訳ツールまで!伝える方法は充実しています。漢字なんて書けなくても想いは伝えられる。

 

 

計算や漢字が生きる力になるのか?

 
極端な話、生きていくためには計算も漢字も必要ない世の中になりつつあります。
 
だけどそれが大切なものであると信じてその勉強を先生も大人も親も押しつける。
 
もしかして遥か昔の「勉強して良い大学に入って良い企業に就職したら幸せ」的な、今はまったく使いものにならないさびれたレールの存在を信じているのでしょうか?

 

たしかに大学に入るためには必要かもしれません。勉強は大学に入るためのツールであるとも言えます。

 

でもいまは、大学を出てるからなんなの?って感じでしょう。
大学卒業が楽しく幸せに生きるためのパスポートにはなりません。それどころか、クソ真面目に勉強してきた人って、自分で考えることができず言われたことしかできない場合が多い。
 
幸せや喜びを、自分で見つけることができないのです。

 

まさに自分のようです。自分の息子をはじめとする子どもたちには、自分のようになって欲しくないですな。

 

 

学びとは?

 
そもそもイヤイヤやっていることが子どもたちの生きる力につながるはずありません。
それに無理矢理強制的につまらないことをやらされるのが当たり前になると、自分が楽しいと思うことや喜びを感じることを捨て、言われたことを我慢してやることを優先する人になってしまいます。
 
だんだんと自分で考え、自分で選び、自分の表現を大切にすることができなくなってしまうのです。

 

ぼく的には、コンピューターや世界中の情報が即座に正確にやってのけてしまうようなことを、わざわざ貴重な脳みその記憶領域と限りある人生の時間を潰して身に付けることは非常にムダなことだと考えはじめています。(でも、これまでの常識と思い込みに勝てないのが現状です)

 

子ども時代は、みんなと同じようなこと・誰でもできるようなこと・変わりにやってくれる技術があるものに時間を使うのではなく、自分にしかできないこと・楽しくて仕方がないこと・その子にしかできないことにエネルギーと時間を最大限費やすことの方が断然大事だと思うんです。

 

イヤイヤやっていることなど学びになりません。
どんなことであれ、興味を持って自発的に取り組み、心から喜びを感じることこそ学びであると最近気づきました。

 

 

「こうあるべき」を捨てる

 
「こうあるべき」という常識を捨て、そういう視点で自分の子どもを観察してみると面白いんです。

 

例えばウチの長男は、PlayStation VitaMinecraft(マインクラフト)というゲームにハマっています。ちょっと前までゲームをずっとやるのは良くないことだと信じていましたが、よく観察しているとめちゃくちゃ一生懸命やっていて、攻略法を自分で調べたり、作りたい村や建物を自分で考えて自分で勝手に勉強して実現しているんです。
 
できたことを話すときも、いつもよりテンションが高いんです。

 

あと歴史も好きで勝手に勉強して教えてくれます。真田幸村がどうとか前田利家がどうだったとか。
なぜか家紋が好きみたいで、この前金沢城に行ったときなんかは、お城の瓦すべてに前田家の家紋が入っている!と気づかせてくれました。
 
この本、もらい物ですが一生懸命かじりついて読んでました。

 

それとかロボット教室なんかは長男が「やりたい!」と言って通いはじめたことで、もう1年半くらい続けています。
 
作りはじめると集中して、改造の時間になるとぼくから見れば独創的なアイデアを自分で考えて、実現したいロボットの動きを生み出します。

 

そしてこんな爆笑な出来事も。

マジウケる。

Posted by Free&Create – フリクリ on 2015年7月31日



 

改めて観察してみると、こうやって必死になったり自然と集中して取り組んでしまうような事があるってだけですごいことだなあと思います。そしてきっと、こういう経験の中から人生を掛けて取り組みたい、続けていきたい何かが見つかるのだと思う今日この頃なワケです。

 

 

学校の勉強よりも大切なもの

 
極端な話、学校の勉強は大切ではありません。
ぼくが一番大切だと思うのは、計算や漢字を覚えることではなく、人生を掛けて取り組みたいことを見つけ、自分を表現するツールを磨くことです。

 

たぶん人間は、周囲の人に自分という人間を伝えるために生きています。
 
自分のことがちゃんと伝わると、嬉しいのです。
自分の表現を、できる限り多くの人に伝えたいのです。
 
だから、人生を掛けて取り組みたいと思ったことを突きつめるのです。
それが自分を知り、自分を表現するツールを磨くことになるから。

 

そこにつなげるためには、興味を持ったことをどんどん試して、さまざまな経験の中から自分の中にある楽しみや喜びを捉えることが大切になってきます。ぼくは遅ればせながら最近やっとそういう意識を持って人生に取り組むようになりました。
 
子どもたちには早めに取り組んで欲しいと思っているので、そういう背中をみせるために、少し焦っております笑。

 

 

まとめ

 
大人は、言いなりになる子どもを育てることを即刻やめて、自分にしかできないこと・楽しくて仕方がないこと・その子にしかできないことを見つける旅にでる子どもを抑止しないように気をつけなければいけませんね。

 

もう、常識を捨てて「こうあるべき」を捨てて、子どもの興味を解放してあげることしかできません。
がんばりましょー!

 

それではー!

 

ABOUTこの記事をかいた人

1980.1.1 東京生まれ YouTubeチャンネル『シンプリィライフ』では、本を参考にしながら無意識の思い込みから自由になる方法をアニメーションで解説しています。本業は古本買取サービス「バリューブックス」のSEOマーケティング担当。