議論をして決めるなんて幻想は捨てて、本物のコミュニケーションの話をしよう。

 
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photo credit: Kalexanderson via photopin cc

 

 

議論をして何かを決めるという行為は、自分の思う方向にうまく持っていくことができた人にとっては、とても満足のいくものになります。
 
でも大半のそうではない人達にとっては、自分の意見や考えをねじ曲げられた人だったり、はたまた意見を言えずにただ黙って成り行きに任せた人ではないかと思います。つまり、納得はいかないけど、相手の理屈や正論に勝てないから、渋々引き下がったというようなことが起きているのではないでしょうか。

 

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おちゃらけ社会派のちきりんさんは、話し合って決めるということは「どちらかに自分の意見を放棄させる」ことだと言っています。
これは最近本当にそうだな〜と思います。

 

議論をして、お互いの主張をぶつけあって、最終的には意見を一つにして、それに向かってみんなでがんばりましょー!なんていうのは、見た目は美しいものかもしれませんが、中身は誰かが自分の意見を放棄した成れの果てに生まれた「偽りの一体感」ではないかとつくづく感じます。
 
本来あるはずのたくさんの意見が、権力とか大きい声とか発言力の強い人の言葉に押さえつけられて一つに集約していくのです。様々なたくさんの人が自分の意見を放棄した状態で、どうやったらがんばれるのか正直よくわかりませんね。

 

最近、議論はムダな気がしてきました。
議論ではなく、お互いがお互いの考え方を示して、それに感化されて、気づきを得て、自分の思考を深め世界を広げていく、というコミュニケーションには間違いなくあります。これにはとても大きな意味があると思いますし、自分のためにも周りの人のためにも、そういうコミュニケーションの場を作っていくことにはとても価値があるように思います。

 

ビジネスシーンでは人が集まるのなら、何かを決める必要がある、そもそもそのためじゃなきゃ人を集めることに意味がない、非効率だ、みたいな臭いがそこかしこに充満しています。そんな形式張った、型にはまったつまらない固定観念はクソくらえですね。

 

世界が広がるような刺激的で学びがあって、前向きになれるような力がコミュニケーションの中にはありますし、それこそ考えの異なる人と人が出会うことで生まれるコミュニケーションの真髄だと信じています。ですが上記のような状態ではそんなコミュニケーションは生まれません。なにより面白くも楽しくも何ともありませんよね。

 

コミュニケーションとは「お互いを理解しあえないという前提で自らの態度を示すこと」だと連続起業家の家入一真さんが言っていたのを思い出します。完全に相手の気持ちになれるはずはなく、そういうことを受け入れた上で、お互いの考え方を尊重し、自分の意見を放棄することなく、自分の態度を示す。自ら描いた理想に近づくために自ら動きはじめるエネルギーを生み出せるようなコミュニケーションができる場を創造できたら、と思うとワクワクしますね。

 

あなたの「人生の文字盤」が見つかることを願っています。
それでは!
 

ABOUTこの記事をかいた人

1980.1.1 東京生まれ YouTubeチャンネル『シンプリィライフ』では、本を参考にしながら無意識の思い込みから自由になる方法をアニメーションで解説しています。本業は古本買取サービス「バリューブックス」のSEOマーケティング担当。