「自己成長」と「貢献の精神」の境界線はどこにある?

 
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photo credit: Garry – www.visionandimagination.com via photopin cc

 

人は誰しも「成長したい」という欲求を根底に持っているそうです。成長を感じるのは嬉しいですよね。それを感じるのは誰かからの賞賛・褒め言葉であったり、何かを成し遂げた時の達成感であったり、昨日とは違う考え方ができるようになった自分に気づいたとき、でしょうか?
 
自己成長を追求する段階は、おそらく自分のことを中心的に考えているときです。自分がこうなりたい、こうしたい、あんな風になりたい、とかそう言う感じです。だけど人は、自己成長の追求の過程で、「他者への貢献」を考え始めるタイミングがくるのではないかと、最近思うようになりました。「自分が!自分が!」だけでは、色々な意味でやっていけなくなるときが来るのだろう、と。

 

日本キッズコーチング協会の理事長の竹内エリカ先生という方に、キッズコーチ検定講座を受講したときにお世話になったのですが、どこかで成長から貢献の段階へステップアップしている、というのが話を聞いたり実際の活動を知ると分かります。社会で活躍されている人達には、意識せずとも社会や誰かの貢献につながる活動をしている方が多いように思います。
私は全然まだまだそうはなれないのですが、でもそれってどういうタイミングなんだろう?というのを考えてみました。

 

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結論から言うと、自己成長と貢献の精神の境界線は、「どう生きるか」から「どう死ぬか」を意識し始めたタイミングなのではないかと思います。
 
「世界から猫が消えたなら」という小説を読んで思ったことなのですが、生きるということはどこまでいっても利己的なことなのだと思います。自分が生きる・生きたいと強く考えているうちは、自分の命と何かを天秤にかけたときに必ず自分の命を選ぶはずです。普通、みんなそうですよね。誰だって死にたくないハズです。
 
でも、変な言い方ですが、どう死ぬか?どう死にたいか?を考えたとき、必ず思い浮かぶことって、自分ではなく「自分以外の誰か」のことではないでしょうか?それこそ、貢献の精神の本質なのではないかと思えてきます。
 
死ぬということは、当然、この世から自分という存在がいなくなるということです。それを意識したとき、人は自分がいなくなった世界のことを想像し、自分がいなくなったとしても、自分が存在したということを誰かに覚えていて欲しいと思うはずなのです。
 
それが自分が生きていた証であり、生きた証を残したいと思うのが人間なのではないか?と思います。どう死にたいか?ということは、下心とか戦略的なことでは全くなく(だって死んじゃったらそんなことなんの意味もないし)、純粋に世の中に自分の生きた証をどう残すか?ということにつながるのです。
 
そうすると、例えば誰かが創造したものや、誰かの想いが詰まっているもの、誰かの生きた証やその人を感じられるものを否定することはできなくなります。ましてや無くすことなどできなくなる。他人の生み出すもの全てを尊重し、他人の生き方を尊重するようになる。
結果的に「利己的」であり、「利他的」になっていく、ということだと思うのです。

 

 

家族ができることは、まさに「死ぬこと・死に方」を意識するきっかけになりますよね。子供が生まれれば、おのずと生きた証になり、自然と残された家族のことを思いやったりすることにつながります。
 
自己成長と貢献の精神の境界線は、「どう死ぬか」を本気で意識し始めるところにある。
「生きること」は、「死ぬこと」を意識することであり、「自己成長」は「貢献の精神」によりさらに加速していく。
 
相反すると思っているものは、どちらか一方だけしか回せないというトレードオフの世界にあるのではなく、どちらも大きく力強く回していく「視点」が必ずあるはず。そういうものを、これから1つ1つ発掘していきたいと思っています。

 

あなたの「人生の文字盤」が見つかることを願っています。
それでは!
 
この小説、オススメです。
 

 

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1980.1.1 東京生まれ YouTubeチャンネル『シンプリィライフ』では、本を参考にしながら無意識の思い込みから自由になる方法をアニメーションで解説しています。本業は古本買取サービス「バリューブックス」のSEOマーケティング担当。