それでも生きていく意味。

 
私の父方のばーちゃんは、引っ越しをした後、認知症になった。
 
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photo credit: seyed mostafa zamani via photopin cc

 

私が大学にいくために長野県に出て離れて暮らしているときのことだ。引っ越して2年もしないうちに、孫であり、自分の息子の長男である私の存在はすっかり忘れ去られてしまっていた。私が実家に帰ると不思議そうな顔でこちらを見るのだ。
とても悲しかったけど、私は当時完全なる自己中心的人間で、家族を大切にする気持ちなど微塵もなかったであろう私にはどうすることもできなかった。もう忘れてしまったが、どうせ「大学に行っているんだからオレにはどうしようもない」などと自分の気持ちを整理して見て見ぬ振りをしていたのだと思う。

 

同じくらいの時期に親父も脳梗塞で倒れた。母親は何を思っていたのか知らないが、私には連絡をくれず、倒れたことも知らない期間があった。これもとても悲しかったが、私には多分何をすることもできなかっただろうし、言い訳をして自分のことを優先して、何もしなかっただろうと思う。

 

 

それはさておき、ばーちゃんはたくさんの大切なことを忘れ、親父は自分一人で生きていくことはできない人間になった。
その頃から、失礼だとは思うけど、「そうまでなっても人が生きる意味ってあるんだろうか?」ということを考えるようになった。大切な人たちのことを忘れ、自分で生きる力を失って、ただ生きているだけ。それでも生きる意味は?
 
考えても考えても、生きている意味についての答えはでなかった。「そんなんなっちゃったら生きている意味なんてないのに、死にたくないという本能だけでただ生きている」というような、何とも冷たい、残酷な答えしか思い浮かばなかったのだ。

 

 

そして私にも家族ができて、今は5人で暮らしている。そうすると見えてくることもあった。すべて、「つながっている」ということを、最近強く感じるのだ。

 

ばーちゃんや親父が生まれたこと、親父と母親が出会ったこと、私が生まれたこと、私の弟と妹が生まれたこと。
私が奥さんと出会って、子どもが生まれたこと。
どんどんつながって、広がっていく感覚を、今は持てる。

 

 

ばーちゃんはもう死んじゃったけど、親父はまだ生きている。
親父が「ただ生きている」だけで、それには意味があるというのがやっとわかってきた気がする。
親父が生み出すつながりを大切にしようと思った、そんな月曜日。
 
それでは。
 
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1980.1.1 東京生まれ YouTubeチャンネル『シンプリィライフ』では、本を参考にしながら無意識の思い込みから自由になる方法をアニメーションで解説しています。本業は古本買取サービス「バリューブックス」のSEOマーケティング担当。